2009年7月4日土曜日

リルケの天使論:ドィーノの悲歌の天使像



悲歌の天使について考えてみましょう。

天使とはどのような存在かについては、悲歌2番の第2連に、それが歌われています。それは、第1連の最後に、わたしという一人称が、天使に向かって、お前たちは何者なのだと問う、その問いに答える形で、第2連が歌われています。この2連目は、わたしの自問自答の回答ともとることができますし、またリルケという作者が顔を出して、その回答をしたというふうにもとることができます。あるいは、その合唱とも。

1連から散文訳をします。それは、第1連にも、第2連の天使を解釈する鍵が置かれているからです。

1連は、悲歌1番の第1連の冒頭と同じく、天使に対する呼びかけという形式をとっています。この呼びかけという形式は、悲歌10篇を通じて、繰り返しあらわれる、悲歌にとって大切な形式となっています。リルケの人生のうちの晩年の10年をかけて、リルケはこの声調を維持することに苦心したということなのでしょう。悲歌1番を受けて、悲歌2番の第1連の最初は、次のように始まります。


どの天使も恐ろしい。そして、それでもなお、わたしにはつらいことだが、わたしは、お前たち、魂の鳥たち、しかし、魂をほとんど殺してしまう鳥たちであるお前たちを歌い、お前たちに歌うのだ、お前たちについて知ることを求めながら。(大天使と睦まじかったあの)トビアスの日々は、どこへ行ってしまったのだろうか。最も輝ける者のうちのひとりが、簡素な家の戸口に立っていた、旅の姿に身をやつして、従いもはやそれ以上恐ろしくはない姿になって。(彼が興味津々、好奇の念を以って外を眺めやった通りに、若者が若者に。)

もし大天使、この危険な天使が今現れて、星々の背後で、一歩を以ってただ踏みにじるだけで、そうしてこちらに向かって足踏み鳴らして来るならば、いったいどうなることであろうか。すなわち、そもそもの本来の心臓、そもそもの本来のこころが、翼を高く掲げて開き、打ち下ろして、わたしたちをたたき殺すことだろう。(そうやって、わたしたちを殺そうと思えばいつでもできるのに、そうしない)お前たちは、一体、何者なのだ。


この最後のわたしの問いに答えるのが、第2連の次の天使に関する説明です。

天使とはこういうものだということを、列挙、例示して、歌っています。ここに列挙されているものに共通することは何でしょうか。それがわかれば、この悲歌の中で歌われている天使の意味もわかりますし、何故わたしが天使を強く求めるのかが、その天使に抱く自己の死に対するわたしの恐怖心とは裏腹に、わかるということになります。最初に挙げられた名前は、次のようなものです。

Fruehe Geglueckte、フリューエ・ゲグリュックテ

これが、詩中に出て来るわたしやわたしたちとの関係で、一体どのような意味を持つか、どのような言葉と、このFruehe Geglueckte、フリューエ・ゲグリュックテは、対照的に歌われているかは、既に前回述べたところです。

これは、天使たちは、その生まれた後の早い時期に、その生を奪われることのなかった、幸いなるものたちという意味です。このものの言い方を、どうしても最初にこの言葉としておきたいと思ったリルケの心中を想像してください。わたしに対して、そうであるが故に、まったくそれは最高の完全な存在だと、このひとことで言いたいのだと思います。生きた人間であるわたしやわたしたちとは対極的に。わたしたちが創造するには、リノスの秘密を必要とする(悲歌1番の最後の連を)が、そんな秘密を必要としない天使たち。

また、前回見たように、このFrueheという副詞を、その次に続く語との関係から、手塚訳、古井訳のように、宇宙の創造の早期という意味で理解をすることもできます。わたしは、リルケは、ここでは、これらふたつの意味を掛け合わせていると思います。ですから、宇宙創成の始めに、また自身の揺籃期に、成功した、祝福されたものたちというふたつの意味で考えることにします。2連目の全体を訳します。そうして、天使とはどのような存在かについて、考えてみましょう。

宇宙創成の始めに、また自身の揺籃期に、成功した、祝福されたものたち、お前たち、創造の、甘やかされるかと思うぐらいに恵みを受けたものたち、高貴な山々の山脈(あるいは高貴さの山脈、または高貴の行列、隊列)、すべての創造行為の、夜明けの日の出の赤に染まった、美しい、(ぎざぎざの)刃のような山頂(さんてん)、花咲く神性の花粉、光の関節、数多くの通路、数多くの階段、数多くの玉座、王座、本質の中から直接生まれた数々の空間、最上の歓喜の中から直接生まれた数々の盾、烈しく魅了された感情の、数々の陶酔の擾乱、そうして、突然、不意に、天使は、個々バラバラになって、数々の鏡となるのだ。その数々の鏡は、流れ出た、そもそもの本来の美を、またふたたび、そもそもの、本来の顔の中へと汲み戻す、創造して、そもそもの、本来の顔の中へと取り返すのだ。

これが、リルケが天使とは一体何者であるかを歌い、回答した連のすべてです。天使とは一体何なのでしょうか。これらの列挙された言葉の中に共通している意味、いや意義とは一体なんでしょうか。これらは、一体何を言っているのでしょうか。

わたしは、それは、一言で言うと、天使という存在は、接続するという機能を持っていると、リルケは言っているのだと思います。ひとつひとつ見てみましょう。これは、リルケが天使について、どのように連想していったかというそのプロセスを追体験することでもあるのです。

まづ、Fruehe Geglueckte、フリューエ・ゲグリュックテ。これが最初です。この表現の意味するところは、上に述べた通り。

次に、お前たち、創造の、甘やかされるかと思うぐらいに恵みを受けたものたち。最初のFruehe Geglueckte、フリューエ・ゲグリュックテを言い換えた表現。

ここまでは、いいと思います。天使は、そのように恵まれた、天恵を授かった存在なのです。

3つ目に来るのは、Hoehenzuege、へーエン・ツューゲ。高貴な山々の山脈(あるいは高貴さの山脈)。しかし、これはやはり掛け言葉で、その意は、また高貴の行列、隊列。前者の意味でも、山と山との接続。後者の意味で解釈すると、どこからかどこかまでを、行く。ふたつの地点を接続する。Zuege、ツューゲという語は、ziehenという動詞から生まれた語で、その意味は、引っ張る、引っ張り寄せるという意味ですから、このことからも、接続するという意味は生まれてくることでしょう。このZuege、ツューゲは、また悲歌2番の第3連で出てきます。既にここに布石をリルケは置いているのです。

また単数形のZugは、悲歌4番第12行目から3行目に、wie die Zugvoegel、渡り鳥のZug、編隊、隊列として出てきますが、それは、編隊を組むことのできる鳥たちは、わたしやわたしたちのように孤独ではなく、お互いに意思疎通をして、親密に生きているということをいうための比喩なのですが、この話しはまた悲歌4番を読むときの話にとっておいて、さて、悲歌2番に眼を向けますと、その第1連にて、詩人が天使をやはり、fast toedliche Voegel der Seele魂の鳥たち、しかし、魂をほとんど殺してしまう鳥たちと、鳥に譬えて呼びかけていることは、詩作と表現の上では、深い意味のあることなのです。天使たちは、鳥たちのように、一つになることができるのです。これは、こころにとめておいて下さい。後ほど、悲歌2番第3連で、天使たちが、この宇宙の最上位の自分たちの空間に、すなわちもともとの天使というものに、天上をめがけて、編隊を組んで、列をなして、渦になって帰還するところがあります。そこに出てくるのです。しかし、さて、その深い意味は何でしょうか。考えてみましょう。リルケの空間論に通ずるのです。

4つ目は、すべての創造行為の、夜明けの日の出の赤に染まった、美しい、(ぎざぎざの)刃のような山頂(さんてん)。この山頂の線は、間違いなくHoehenzuege、へーエン・ツューゲです。しかも、日の出の赤に染まった美しさを備えている至高の線、稜線、あるいは山脈線。天と地との間にいて、美しくそれらを繋ぐもの。

5つ目は、花咲く神性の花粉。花咲くという動詞、bluehenをみると、わたしが今この稿を書いていて思い出すのが、悲歌8番第1連の14行から16行目にかけての、次の箇所です。

Wir haben nie, nicht einen einzigen Tag, den reinen Raum vor uns, in den die Blumen unendlich aufgehen.
わたしたちは、唯一つの日たりとも、一日として、わたしたちの前に純粋な空間を持つことは決してないのだ。その空間の中へと、花々が果てしなく咲き広がって、上昇してゆくという空間を。

植物の行為は、リルケにとっては、純粋な行為です。それは、この前後の文から考えると、植物は、動物や噴水と同じで、例えば、見られることを意識していない、美しくさいているということを意識していないから、それは純粋なのだと理解することができます。これに触れると、悲歌1番第1連にあった、次の箇所、


目ざとい動物たちは、わたしたちが、この解釈された世界の中で、どんなところであれ棲みかとしているところでは、余り信頼がおけないということに既に気づいている


に触れることになります。何故、わたしたちは、この解釈された世界では、そうなのだろうか。これは、またこの話にどこかで必ずなりますので、またそのときのためにとっておきます。

閑話休題。さて、そのように、また当然のことながら、花咲く神の性質、神性を、純粋に自分が媒介者、媒体となって、神聖な花々を咲かせること、これが天使の務めであるといっています。

6つ目は、Gelenke des Lichtes、ゲレンケ・デス・リヒテス、光の関節です。関節ということから、既に接続するという意味です。光の何かと何かを接続する、繋ぐ。それは、赤と紫とか、青と赤とか、光の色と色を、あの光の諧調の間を繋ぐ存在という意味に理解することができます。ほかにも理解のしようがあるかも知れません。

7つ目は、関節ということから、Gaenge、ゲンゲ、数々の廊下、通路という意味。

8つ目は、通路から、階段へ。数々の階段。これも接続するもの。最上位の階層から最下位の階層までをも接続する。従って、次は、その階段の一番上に位置するもので、

9つ目では、玉座、王座です。これも、天と地上を繋ぐものという理解ができるでしょう。

10番目は、Raeume aus Wesen、ロイメ・アウス・ヴェーゼン。Ausは、リルケの好きな言葉です。それは、内側から外側へと直接出てくるという意味の前置詞だから。玉座ということから、Raeume、ロイメを、宮殿の中の部屋ととることもできますが、しかし、ここでは、リルケは、Wesen、ヴェーゼンから生まれたということをいっていますので、言葉の遊び、連想は、そのように考えておいて、ここでは、やはりそのまま、数々の空間と考えることがよいと思います。天使は、空間なのです。この理解は、重要です。次は、

11番目で、Schilde aus Wonne、シルデ・アウス・ヴォンネ、最上の歓喜の中から直接生まれた数々の盾です。

これは、否定的な、negativeな接続と理解しましょう。天使は、危険から身を護ってくれる存在でもあるということになります。しかし、詩中の一人称によれば、それは逆にわたしたちを滅ぼす危険な存在ということになっています。天使が護るのは、詩中にいう複数2人称のわたしたちではないのです。

12番目は、前の最上の歓喜という言葉から連想されて、Tumulte struermisch entzueckten Gefuehls、トゥムルテ・シュトゥルミッシュ・エントツュックテン・ゲフュールス、烈しく魅了された感情の、数々の陶酔の擾乱。感情においても、その陶酔という形で、何かと何かが一体となる、その役目を果たすのが天使だというのです。

しかし、そのあとに、突然、不意に、天使たちは、上の挙げたような最上位の階層の言葉で形容されている世界から、この地上、わたしたちのいるこの次元、この世に現れるのです。そうして、この世界では、天使たちは、鏡に化身、変身して、その姿を現しているのです。これが、わたしたちの日常に存在している天使の異名です。

高次元の存在は、下の階層の次元に降りてくるに従い、複数のものに分かれて行き、その姿を下位のものの姿に変じるのです。リルケは、そのことを歌っています。そうして、その姿は、高次元にいるものと、その下の次元にいるものとでは、同じものをみても全く異なるのです。
悲歌10番第6連、4行目から6行目にある次の箇所も同じことを歌っています。


Zeigt ihm die hohen Traenenbaeume und Felder bluehender Wehmut,(Lebendige kennen sie nur als sanftes Blattwerk)
悲嘆の女性は、彼に、背丈の高い涙の木々と、花咲くこころの痛み、傷心の数ある野原を示す(活き活きとしている者たちは、花咲く傷心を、単なる柔らかな花びらとしてしか知ることがない。)


さて、しかし何故天使は、いつも突然、この世、この世界に現れるのでしょうか。悲歌1番第1連の冒頭を思い出してください。このように歌われています。

Es naehme einer mich ploetzlich ans Herz

もしひとりの天使がわたくしを突然、不意に、その心臓、その胸にかき抱いたならばとあります。

悲歌2番のこの、天使が鏡に姿を変じて出現するところで、またしてもploetzlich、プレッツリッヒ、突然、不意に現れるのです。今、わたしは二つの側から説明することができます。

まづ天使の側からみると、そうしてそれはリルケの願いであり、リルケの宇宙を思うことなのですが、天使という存在は、あらゆる空間を一息で、間髪をいれずに、目指す次元へと到達することができるということが、ひとつ。その存在は、時間とは無関係なのです。それが、天使です。

もうひとつは、わたしたち、この解釈された世界(悲歌第113行目)の中に、in der gedeuteten Welt、イン・デア・ゲドイテテン・ヴェルト、生きていますが、これは時間の中に生きているということから、変化をするので、その1行前の112行目では、目ざとい動物たちには、自分たちの住処としている場所にあっては、余り信頼がおけない、信頼性がないと見抜かれているのです。

それでは、そのように見抜く動物とは、どのような存在でしょうか。ここで思い出しただけでも、人間とはまた反対の能力を持っていることが察せられます。動物は、変化、時間を見ないのでしょう。それは、また、悲歌8番第1連に歌われておりますので、そこに至って、更に先を考えることにいたしましょう。

さて、この解釈されて世界に住むわたしたちですが、そのような変化の中で、そうして、時間ということから、繰り返される、反復される時間と、その中での反復される、わたしたちの行為ということから、いつもそうやって生きているわたしたちには、そのような繰り返しの外にいる存在は、いつも突然やってくるのです。そのように見えるということなのです。

また、このようにも考えます。実は、わたしたちは、時間の中では、実に単純なことに、ほとんどの場合、原因と結果の連鎖性と、目的と手段の連鎖性の中でのみ生活しているのです。連鎖性とは、原因が結果を生み、またその結果が原因となってあらたな結果を生むということ。同様に目的と手段の連鎖性も、そのような連鎖になっています。文字通りに、これは連鎖、繋がった鎖であります。これがわたしたちの、繋げられた日常生活です。行為も意識も。そのように、わたしたちの意識と行為も、反復される時間の中にあります。

しかし、天使は、上で見てきたように、そのような時間のある世界、連鎖性の世界の外に、リルケの想像した(また創造した)究極の空間、最上位の空間に存在している。そこの場所からこの世界に出現するのは、時間にとらわれていないが故に、ploetzlich、プレッツリッヒ、突然、不意に、何の脈絡もないということになるのです。

リルケが悲歌の中で、他にも幾つもあるこのploetzlich、プレッツリッヒ、突然、不意に、何の脈絡もなくという副詞の使う、その使い方を見ると、あるものが、ある空間から別の空間に時間に無関係に移動するときに、それをはっきりとするために、この副詞を使っています。また、他の悲歌を読んでいて出てくることでしょうから、またその時に触れることにしましょう。

しかし、このようにploetzlich、プレッツリッヒ、突然、不意に、何の脈絡もなくという副詞を使うということは、リルケは、一つの空間に少なくとも一つの時間が存在していると考えていたことになります。これをどのような空間的な表象に転化するか、これがリルケの詩をむつかしく見えさせている原因だと思います。この議論もまた追々と。

さて、この天使論の最後にいうべきことがあります。それは、天使は鏡に姿を変じて、何をしているのかということです。これは、天使の使命(もし神が天使の僕であるならば)であり、天使がほかの次元の中に現れて遂行し、果たすべきその具体的な接続機能のことです。

もう一度鏡に変身した天使たちの姿に戻ります。悲歌2番第2連の最後は、次のようでした。

その数々の鏡は、流れ出た、そもそもの本来の美を、またふたたび、そもそもの本来の顔の中へと汲み戻す、創造して顔の中へと取り返すのだ。
ここで、何故わたしが悲歌2番の第1連をも訳したのかがお解りいただけると思います。

1連の最後は、次のようでした。

そもそもの本来の心臓、そもそもの本来のこころが、翼を高く掲げて開き、打ち下ろして、わたしたちをたたき殺すことだろう。

これは、心臓が天使の翼を持っているように想像されます。

奇妙なことですが、リルケは、決して、天使の個別の心臓、天使の個別の美、天使の個別の顔を歌っているのではありません。このように、所有代名詞を使わずに、つまり彼の手とか、彼女の脚といった、主語に関係のある指示をすることなく、そうはしないで、必ず、定冠詞と形容詞と名詞という組み合わせで、体の各部位の名を、そうして必ず、eigen、アイゲン、そもそもの、本来の、固有のという意味の形容詞をつけて呼ぶのです。これは一体どういうことなのでしょうか。リルケは何をいいたいのでしょうか。

リルケは、あくまでも天使の存在の完全性をいいたいがために、そのような表現をしたのだということです。天使は、もともとの、オリジナルの、固有の美をその身に備えているのです。上の天使の異名の列挙の中にあった通りです。そうして、また、天使は、本来の顔も、そもそもの心臓も持っているのです。それは、個々の天使の顔や心臓ではありません。(この理解が、わたしが手塚訳や古井訳と異なるところです。)

わたしたちは、毎日朝、鏡を見ますが、そうして、見るのはいつも、自分の髪、自分の眉、自分の目、自分の鼻、自分の口、自分の顔だけです。しかし、そのときリルケの天使は、その存在の全体を使って、この世に流れ出た本来の美を、再び創造して、そもそもの、本来の顔の中に汲み戻すという仕事をしているのです。

さて、何故、天使は、そんなことができるのでしょうか。それは、上に列挙した天使の異名のひとつにあったように、天使は、本質の中から直接生まれ出た、従って、宇宙の最上位の空間だからです。つまり、ドイツ語でSpiegel、シュピーゲル、鏡とリルケが言っているものは、鏡面のみならず、その奥に映っている空間も含めて、リルケは鏡といっているのです。天使は、空間なのです。

もし、あなたが毎朝鏡をみて、その向こうに映ずる空間が、鏡面も含めて天使のこの世での姿だと知って、見て、もし何か恐れ、恐怖心に由来する感情を少しでも抱いたとしたら、それは、悲歌の中の一人称のわたしと同じ、天使に対する感情を共有したということなのです。

天使のみならず、この同じ空間という考えは、悲歌のあちこちに出てきます。人間ひとりも空間です。部屋はもちろん空間、しかし、それから春という季節も空間なのです。そうでなければ、悲歌2番3連を理解することができませぬ。

次回は、悲歌2番第3連を読みたいと思います。これは一体何を言っているのか。

しかし、その前に、悲歌2番第1連で、今回、上で次のように訳した箇所の解釈に挑戦し、それから、悲歌2番第3連、リルケの空間論に進みたいと思います。

(彼が興味津々、好奇の念を以って外を眺めやった通りに、若者が若者に。)

この括弧の中の文は、一体何を言っているのでしょうか。

〔補足1
この世での変化ということを、リルケは悲歌の中でもよく、流れるという動詞を使って表現しています。上の鏡の姿の天使の行うことについても、流れ出た(entstroemen―entという前綴は、リルケの愛好する前綴ですー固有の、そもそもの美を、天使は創造して、自分の中へと汲み戻すとあります。悲歌2番の最後の連にも、その表象が出てまいります。

さて、この天使の表象を見ると、顔もひとつの空間なのです。ものが出入りをする。リルケの不思議の世界、です。

〔補足2〕
大事なことを上で言うのを忘れました。それは、悲歌1番第1連で、願望、祈願の形で、一人称のわたしが叫び声を上げて、天使にどのように何を求めたのかということです。

どのように求めたか、それは、ドイツ語の原文では、文字通りに接続法という方法によって、天使に何かを求めたのです。それは、英語では過去形から作る非現実話法という言語規則です。わたしは、現実の世界にはいない存在に向かって、その最高位の階層の存在との接続を、そのように叫んだのです。

一体わたしは何を、何と何を接続してくださいと叫んだのでしょうか。その問いに対する答えが、この悲歌10篇ということなのでしょう。少しづつ、慌てず、読んで参りたいと思います。



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