2009年10月26日月曜日

詩集「麗人と莫連」(秋川久紫著)を読む

詩集「麗人と莫連」を読んで。

リルケの詩を読むのと同じ方法で、秋川久紫(あきかわきゅうし)さんの詩を読んでみよう。それは、日本語の詩を外国語のように読むということであるかも知れない。

目次から見てわかることは、詩人の、強い、立体的な造形の意志である。天地と無用という篇の間に序破急という篇があって、それで全部で5つの部立てという構成になっていて、それも、天地、序、破、急のそれぞれ篇の最初には、追憶と題した詩が、その対位的な、対照的な副題とともに、おかれている。曰く、麗人と莫連、殉死と煉獄、浪漫と鈍化、閃光と撹拌。序の篇においては、最初のみならず、最後にも追憶という詩篇がおかれてあり、その副題は、欠落と揺籃とある。

これらの篇と詩の間に、それ以外の詩が置かれている。このような構成である。

1.副題について

括弧の中に入っている副題を、詩集の表題にするという考えは、ある成熟を前提にした発想である。これを何歳で知るかによって、そのひとの人生が様々なことになるだろうと思う。

このこととあわせて思うのは、この詩集は、詩人の人生と等価であるということです。詩人の、いうまでもなく凝縮が、これらの言葉であるということが、あらためて伝わってくる。追憶というすべての詩の主人公は、ひとりの青年です。

副題の対立は、実は単なる対立ではない。

作者は、意識的、意図的に色彩にある意味を持たせています。最初の詩、追憶I(麗人と莫連)の最後は、次のように終わります。

吊るされたたくさんのフィルムの中から特に黄色く見える一枚を取り出し、青年は顔を歪めてほんの少しためらった後、そこでようやく初源の言葉を告げる。

とあります。

青年は、「特に黄色く見える一枚のフィルムを取り出」すのです。フィルムには、麗人と莫連の姿が写っているのでしょう。それらは、黄色い色の中に、ふたつながらに、相反するものとして、そのまま、あるのでしょう。

青年は、「そこでようやく初源の言葉を告げる」ことができる。これは、詩人の言葉の出てくる場所を、そのまま示しています。そうして、青年の言葉は、そのまま「初源の」言葉です。「告げる」とあるので、これは、このままこの詩集の中の詩の言葉の性格を、そのまま表わしていると思います。それほど、この最初の詩は、重要な位置を占めているのでしょう。

もう少し、黄色という色に焦点を当ててみます。そうすると、この初源の場所がどのような場所であるかが、作者自身の言葉でわかると思います。追憶II(殉死と煉獄)をみてみましょう。その中に次のような一行があります。

まずは白い倦怠を、次に緑の官能を、最後に黄色い不条理をシナリオから消し去ろうとする試み。

このシナリオを書いているのは、とある青年なのですが、ここに「黄色い不条理」とあるように、この散文詩で歌われている「深夜の二丁目の支那そば屋」の店の中も、混沌というのではなく、いや、むしろ、この青年の意識の均衡を保とうという努力で、互いに反し合って分裂しそうな現実のあれこれが、かろうじて持っている様子が歌われています。黄色い色とは、そのような意識を表わす色として、歌われているのだと思います。そこは、初源での場所です。この詩人の強い意志によって、分かれて生まれる筈の不条理の世界が、かろうじてひとつに、言葉の力でまとめられ、維持されています。「初源の言葉」とは、実は、この不条理な場所に生まれています。もっとも、青年は、自分自身の言葉で、その不条理を、そのシナリオから消してしまおうとしているのですが。(追憶V(閃光と撹拌)の青年も、今度は数ある絵のカンバスを「白く塗り潰してしまうことを画策する」のです。)

青年が支那そば屋を出て、「唐突に現れた鉄橋の上から覗き込む真っ昏な川の面」は、如何なる川面であることでしょうか。言葉と現実の不条理は、続くのです。そこで、詩人は、一体どのようなシナリオを書くのでしょうか。これは、この詩人ばかりではなく、どの詩人も直面する課題ではないでしょうか。戦争から来た用語を使えば、詩人がこのようなシナリオを書くとは、詩人が、生きるために、どのような戦略を立案するかということでもありましょう。この青年は、そのような立案をしては、壊し、しては壊しすることになるのでしょう。

最後の追憶VIII(追復と結界)では、青年は、その最後の連で「揺ぎ無き明快な終章」に立っていますので、自分の姿をみづから知るところに至っています。それは、このような自分自身の姿です。これは、やはり、わたしは、美しいと思います。言葉で、美を生み出さなければ、書かれただけでは、詩ということは難しい。初源の場所、不条理の場所を、ここでは、「磁場の昏迷」と歌っています。

磁場の昏迷に畏怖して急流に立ち、青年は振り向きざまに任意の同僚に向けて語りかける。幾多の虚無との戯れを棄て、赤いカラスになりたい。群れの中にたった一羽だけ混じった結界をついばむ羽根の赤いカラスに。

この赤いカラスが、追憶と題された詩群の間に配置された詩群を書いたのです。

このように、日本語の詩を解釈をするという経験は、実は、わたしは初めてなのですが、追憶という詩群に護られたその他の詩群についても、読んでみたいと思います。作者が総体として読んでほしいといっている言葉を大切にしたいと思います。

2 件のコメント:

秋川久紫 さんのコメント...

タクランケさん、丁寧にお読み頂き有難うございます。

正鵠を得ているご指摘がいくつもあり、その中で赤いカラスの位置付けのところでハッといたしました。おっしゃる通り、赤いカラスは詩人としての自分の分身です。

タクランケ さんのコメント...

秋川さん、

書評というのでもない、批評でもない、感想でもない、なんというのだろう、作者のこころを汲み出したいと思う、でも、やはり、むつかしいなあ。

詩にまつわることばは、結局詩人の言葉を超えることができない。詩を書く前に、詩人であることは、大切な、かけがえのないことなのですね。