2010年1月4日月曜日

オルフェウスへのソネット(XXIV)(第2部)

XXIV

O DIESE Lust, immer neu, aus gelockertem Lehm!
Niemand beinah hat den frühesten Wagern geholfen.
Städte entstanden trotzdem an beseligten Golfen,
Wasser und Öl füllten die Krüge trotzdem.

Götter, wir planen sie erst in erkühnten Entwürfen,
die uns das mürrische Schicksal wieder zerstört.
Aber sie sind die Unsterblichen. Sehet, wir dürfen
jenen erhorchen, der uns am Ende erhört.

Wir, ein Geschlecht durch Jahrtausende: Mütter und Väter,
immer erfüllter von dem künftigen Kind
daß es uns einst, übersteigend, erschüttere, später.

Wir, wir unendlich Gewagten, was haben wir Zeit!
Und nur der schweigsame Tod, der weiß, was wir sind
und was er immer gewinnt, wenn er uns leiht.

【散文訳】
ああ、このよろこび、いつも新しく、緩(ゆる)くした粘土の中から生まれてくる。
だれもほとんど、一番初期の冒険者たちに力を貸さなかった。
それにもかかわらず、都市という都市が、祝福された湾のところに生まれ、
それにもかかわらず、水と油が甕という甕を満たした。

神々を、わたしたちは敢然たる企図の中で計画するが、
気むづかしい運命は、わたしたちが折角計画したのに、その企図を再び破壊してしまう。
しかし、神々は、不死のものたちだ。そうだろう、わたしたちは、終(つい)には
わたしたちの願いを聞き届けてくれる者のいうことを盗み聞きしてよいのだ。

わたしたちは、幾千年を通じて亘る種族だ。父たちと母たち、
子供が、境界を越えて行って、いつかは、そのあとも
わたしたちを驚かせよという思いを以って、未来の子供によって、
いつも一層満たされる、そのような父たち、母たち。

わたしたちは、わたしたち果てしない冒険者たちは、時間が何だというのだ!
そして、沈黙がちな死神だけが、わたしたちが何であるか、
そして、死神が貸与するときには、いつも、何を獲得するかを知っているのだ。


【解釈】
前のソネットで、時間がわたしたちに反抗することと、その克服を主題としたので、同じ主題が、別の視点から、歌われている。個人に焦点を当てた時間ではなく、歴史的な、人類の時間に焦点を当てている。

第1連第1行の粘土は、第4行目に出てくる壺や甕を作る粘土です。これは手による仕事だということが意識されている。手がものを創造し、都市と文明を創造する。

そうして一番最初の草創の時期に苦労をした人間たち、後から来る者たちのために、未知の領域に挑戦した無償の冒険者たち、この先駆者には、ほとんど誰も力を貸さなかった。これはいつもそうであったのではないでしょうか。しかし、それでも、それにもかかわらず、数多くの都市は生まれた。祝福された複数の湾のほとりにとあるので、世界的な交易が想像されます。そのように都市は繁栄し、文明は栄えてきた。そうしてまた、冒険者たちの苦労をひとは全く省みることがなかったにもかかわらず、水と油は甕を満たした。水と油が甕を満たすとは、生活が豊かであることの謂いです。

この「にもかかわらず」に、わたしは、第1部ソネットXIに歌われている「大地から生まれでた名誉心」を感じます。話者のもつ、騎士の名誉心を。これは、冒険者の名誉心でもあるでしょう。ひとに敢て省みられなくとも挑戦するという無私のこころ。旅する騎士。

第2連では、わたしたちは、神々をも計画するといっている。しかし、それは運命がやってきて再三再四壊してしまう。神々を計画するという表現は微妙です。神々を創造するとはいっていない。そこに至らない。計画しては、その計画は壊される。しかし、他方神々は既に存在していて、不死のものとしてある。だから、願いを聞き届けてくれる神のひとりのいうことを盗み聞きしてもゆるされるだろう。わたしたちが勝手に神を選んでもゆるされるだろう。そういっているのだと思います。

第1連は人間の営み。第2連は神々と人間の関係。第3連では、神々のように不死ではない人間が、どのように時間を越えてきたかを歌っています。それは、平俗な言い方でいえば、子々孫々、代々何かを受け継ぎ、後生が先生を乗り越えて、新しいものを創造してきたのだといっている。

第4連では、わたしたちは、第1連から第3連で歌った、そのような冒険者であると歌っている。

だから、Was haben wir Zeit!、ヴァス・ハーベン・ヴィア・ツァイト!、時間が何だってんだ。時間なんか糞くらえだ!と過激に訳したい。第4連の最後の2行、

そして、沈黙がちな死神だけが、わたしたちが何であるか、
そして、死神が貸与するときには、いつも、何を獲得するかを知っているのだ。

これは何を言っているのでしょうか。

わたしたち冒険者は、死神から何かの貸与を受けるということをしない。それは時間の中で享楽に身を任せるということは、それまでの連の冒険者からいって、しないのです。ですから、死神が何かを獲得して、それ一代で冒険者の仕事を終わりにするということもないし、できない。それが冒険者だといっている。

他方、この2行のような、死神のすることがこれだという表現の仕方をしたのは、人間というものは、一体にそのようなものだからでしょう。つまり、別に享楽ばかりではなくとも、前のソネットに歌われているように、時間は、不断にわたしたちに抵抗する。この世の生の時間には限りがある。それが人間に与える限界と、その限界を突破するために、人間が死神の力を借りて、無限の命を授けることを願うことを死神は待っている。あるいは、限られた時間の中で、個人的な夢を実現することの願いを待っている。自分だけの人生を考えるために、死神と取引することを人間は考える。冒険者はそうではない。死神が何を貸与し、何を獲るかは、その目的語をリルケは敢て略しているので、そのような与奪の関係にあり得るものがすべて、死神との取引の目的語になります。

わたしはこの最後の2行で、第1部ソネットIXの第2連を思い出します。そこでは、

Nur wer mit Toten vom Mohn
aß, von dem ihren,
wird nicht den leisesten Ton
wieder verlieren.

【散文訳】
死者と一緒に、ケシの花を食べたもの、死者のケシの花を食べたものだけが
かすかな音をも、再び、決して失うことはない。

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