2010年1月8日金曜日

オルフェウスへのソネット(XXIX)(第2部)

XXIX

Stiller Freund der vielen Fernen, fühle,
wie dein Atem noch den Raum vermehrt.
Im Gebälk der finsteren Glockenstühle
laß dich läuten. Das, was an dir zehrt,

wird ein Starkes über dieser Nahrung.
Geh in der Verwandlung aus und ein.
Was ist deine leidendste Erfahrung?
Ist dir Trinken bitter, werde Wein.

Sei in dieser Nacht aus Übermaß
Zauberkraft am Kreuzweg Deiner Sinne,
ihrer seltsamen Begegnung Sinn.

Und wenn dich das Irdische vergaß,
zu der stillen Erde sag: Ich rinne.
Zu dem raschen Wasser sprich: Ich bin.

【散文訳】
たくさんの距離、たくさんの遠さの静かな友よ、
どのようにお前の呼吸がまだ空間を増大させるかを感じよ。
昏い鐘楼の釣り下がっている台座の梁の中で
お前を鳴り響かせよ。お前を貪(むさぼ)るものは

この養いによって、一個の強きものになる。
変身の中を、出入りせよ。
お前の最も苦しい経験は何だ?
酒を飲むことが苦(にが)いのであれば、お前が酒になりなさい。

この夜の中で、過剰の中から外へと
お前の五感の感覚の交差路に、魔法の力があれよかし、
魔法の力の稀なる遭遇の感覚よ。

そうして、もし地上的なものがお前を忘れたならば
静かな大地に向かって言え。わたしは、迸(ほとばし)り、流れている。
急激に流れる水に向かって話せ。わたしは存在している。

【解釈】
これが、ソネットの全篇を通じて、最後のソネットです。

棹尾を飾るにふさわしく、やはり、オルフェウスが歌われている。このソネットは、今まで歌われた54篇のソネットの集大成です。既に思弁的なソネットをあとにしているので、リルケの言葉も、言葉の、語彙の上では、易しく、優しい。

第1連の冒頭、「たくさんの距離、たくさんの遠さの静かな友」とは、オルフェウスのことを言っている。距離、遠さとは、リルケが歌ってきた、真の意思疎通に必要なも距離、遠さです。第1部ソネットIIの眠れる娘が、世界を眠り、その純粋な距離をわがものとしておりました。第1部ソネットXIIでは、近代技術のアンテナの距離ではなく、音楽が純粋な距離を現出せしめるのでした。第1部ソネットXXIIIでは、飛行機がその孤独の空の果てに飛んでいって、距離に近しいものとなるのでした。第2部ソネットXIIでは、変身を欲しないものには、距離の中から、最も厳しいものが、厳しいものを呼んできて、いわば不在の鉄槌を下すのでした。オルフェウスは、そのような意味をもつ距離の中にいて変身を重ね続ける神的な若者です。

神的な美しい若者が我が身を犠牲にし、青春のときにs死ぬことによって、新しい生命、新しい世界が躍動するという主題は、最晩年のリルケの悲歌と、このオルフェウスへのソネットの大きな、また典型的な主題です。

静かな友という、その静かなとは、このように死にも親しいという意味が入っていると思います。リルケは、この言葉もあちこちで多用しておりました。その言葉の意味に、わたしたちの理解は従いたいと思います。このソネットの第4連で、静かな大地と言われていますので、それは、静かなということは、豊穣であるということも意味しています。自然の豊かさについては、やはり今まで読んできた複数のソネットで歌われていた通りです。今、ひとつひとつを挙げることをいたしません。

さて、やはり、オルフェウスの呼吸は、空間を増大させ、増加させる。これは、オルフェウスの獲得する純粋な空間を前提に歌われていることです。オルフェウスは純粋な空間を歌い上げることができる。それは、どのようにできるのかというのが、第1連の鐘の音を鳴り響かせよという一行です。それは、第2部ソネットXXIIで歌われていたように、鐘楼の鐘の音とは、日常に抗して、毎日垂直方向に樹木のようにそそり立つものなのでした。

このようなオルフェウスの変身の人生は、無私の、我が身を捨てての苦行でありますが、第2連では、そのお前を食い尽くすものが、お前を滋養にして、強いものになるのだと歌われています。だから、変身の中で、出入りをしなさい。苦しいことがあったら、苦(にが)い酒を飲むのではなく、お前が酒に変身しなさいと歌っている。このお酒(葡萄酒)についての一行は、全篇のソネットを通じて、第2部ソネットXXに出てくる魚の行と一緒に、わたしの好きな一行です。わたしも苦しければ、葡萄酒、酒に変身しよう。これはわたしの本懐であります。

さて、そうして、やはり過剰ということが、第3連で歌われる。第1部ソネットXIVの死者たちの眠る地下の根の世界で、死者たちはその過剰をわたしたち人間に恵んでくれるのでした。また、第2部ソネットXXIIの冒頭で、運命に抗して、わたしたちが今こうしてここにあることの素晴らしい、herrlich、ヘルリッヒな過剰を歌っておりました。その同じ過剰が、この最後のソネットのこの連でも歌われております。昼にではなく、夜に、過剰の中から(これをわたしたちのそのような現存在の過剰から生まれる過剰だということを否定する言葉は、このソネットにはありません。あるいは、どのようなものに由来する過剰を考えてもよいと思います)、魔法の力が生まれてくる。それも、交差路、十字路に生まれてくる。「お前の五感の交差路」とは、第1部ソネットIIIの第2連で歌われているものと同じだと思います。普通のわたしたち人間は、そのような場所では、こころも感覚もふたつに引き裂かれるが、オルフェウスと、そのような努力をして能力を獲得したものは、その場所でひとつの存在としていることができる。そのような存在として、歌われているのは、第1部ソネットIVの第1連の風であり、小さく吐く息であり、そうであれば、空間なのでありました。それゆえ、「魔法の力の稀なる遭遇の感覚」と歌われているのでしょう。ふたつに分かれたものが、ひとつになることが稀だといっているのです。そうであれば、わたしたちは、また、第1部ソネットXIのふたりの、そうしてふたりで、孤独な旅をする騎士たちを思い出すことにいたしましょう。

そうして、最後の連では、お前、オルフェウスを最もよく知っている筈の大地がお前を忘れることがあれば、静かな豊かな大地に向かって、わたしは流れているといえ、激しく流れている水に向かっては、わたしは変わらずに留まっている、即ち存在しているといえと、そう歌って、最後に話者はオルフェウスに命じているのです。

激しく水のように流れ、変身をひとに知られず重ねること、そうして変わらずに存在していること、これがオルフェウスの姿、Figur、フィグーアなのでありました。そのentity、実在、存在を、わたしたち過ぎ行く人間は、認識し、この「友の健康な祝祭のために」(第2部ソネットXXVIIIの第4連)褒め称え、荘厳しようではありませんか。

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