2015年8月12日水曜日

三島由紀夫の十代の詩を読み解く6:三島由紀夫の小説と戯曲の世界の誕生2:三島由紀夫の人生の見取り図3(一層詳細な見取り図)


三島由紀夫の十代の詩を読み解く6:三島由紀夫の小説と戯曲の世界の誕生2:三島由紀夫の人生の見取り図3(一層詳細な見取り図)



          目次

1。三島由紀夫の戯曲の世界の誕生
2。三島由紀夫の人生の見取り図3(一層詳細な見取り図)


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1。三島由紀夫の戯曲の世界の誕生
       

今決定版第37巻の『公威詩集 II』の『朝の歌』(446ページ)まで読み進めたところです。

ここまでの間に、詩から戯曲が生まれた事情を十分に伺はせる詩が5篇あります。以下名前を列挙しますと、

(1)『三 ナイルの辺り』(『聖室からの詠唱』270~271ページ):13歳
(2)『広い庭にすんだ蟋蟀と狭い草間にすんだこほろぎ』(『公威詩集 I』306~309ページ):13歳
(3)『訃音』(『Bad Poems』377~378ページ):14歳
(4)『日本的薄暮』(『Bad Poems』387~388ページ):14歳
(5)『二つの情景』(『公威詩集 II』426~427ページ):14歳

といふ、このやうな詩が、科白を含んでゐて、後年三島由紀夫が「そして少年時代に、詩と短編小説に専念して、そこに籠めていた私の哀歓は、年を経るにつれて、前者は戯曲へ、後者は長編小説へ、流れ入つたものと思われる。」と『花ざかりの森・憂国』(新潮文庫)の自筆のあとがきでいつてゐる通りの源になつてゐます。

三島由紀夫は、率直に自分の文学について語つてゐるのです。

これらの詩のうちで、一番三島由紀夫の感情の発露の自然で、さういふ意味では生き生きとしてゐるのが、(4)の『日本的薄暮』の最後の連の3行です。他の詩の科白は、散文の、さういふ意味では小説の会話の科白といつても差し支えない科白の調子になつてをります。以下、『日本的薄暮』の最後の連の3行を。:


「ああいやだ」「しんどおます」
あきあきするとも所詮ぬけられぬ
この潔癖な舞台の夕暮。


この科白の口調と、最後の行に舞台といふ言葉のあることから、この舞台とは、歌舞伎の舞台なのでせう。三島由紀夫が歌舞伎の舞台を舞台といふ言葉に思ひ、さうして「 」に入れる科白が歌舞伎調の科白であること、これが一番戯曲らしい科白の感じを備えてゐるといふことは、やはり注目に値します。

このやうに考えますと、これ以外の連も最初から此の連までもが、やはり一種の韻律を備えてゐて、やはり歌舞伎の舞台の調子に言葉が載つてゐることが判ります。

これが、このまま1956年(昭和31年)に上梓した『近代能楽集』に続ゐていることは、その通りだと思はれます。

前回の『三島由紀夫の十代の詩を読み解く5:三島由紀夫の小説と戯曲の世界の誕生:三島由紀夫の人生の見取り図2』にて、三島由紀夫が抒情詩人から叙事詩を書いた画期的な詩が13歳の『桃葉珊瑚(あをき)《EPIC POEM》』といふ詩だといひました(決定版第37巻、206ページ)。

さうしてみますと、

(1)12歳で詩人としての本格的な自覚が生じて、その自覚のもとに『HEKIGA』といふ詩集を編み、しかし他方同時に、
(2)13歳の『桃葉珊瑚(あをき)《EPIC POEM》』といふ詩の後と、その翌年からは、その意識は既に戯曲と小説の科白に向ひ、
(3)15歳で『少年期をわる』と題した詩を歌つて、「なじまぬ思ひ出にしたしみ、/ぼくらの歌はすがれた。/にせものの悲嘆のかなたに/愛の林はまだうつくしく茂つてゐる。」(昭和15年10月18日)と、現在からそれまでの過去を追想、追憶して、それまでの自分の歌った叙情を「にせものの悲嘆」と呼び、一旦それまでの過去を割り切つてから更に、
(4)この15歳の『少年期をわる』といふ詩の後から、それ以前には詩の中の一部としてあつた戯曲と小説の科白の感覚が全体を備えたものとして、表に出てきて表はされ、
(5)20歳までの間は、詩文散文並存の時期が続き、その後も、
(6)20歳以降の小説と戯曲は、そのまま小説(散文)と戯曲(詩文)といふ併存が、生涯の最後の『豊饒の海』(小説、散文)と『癩王のテラス』(戯曲、詩文)まで続いた

といふことになります。


2。三島由紀夫の人生の見取り図3(一層詳細な見取り図)

このやうに三島由紀夫が詩の中に戯曲(詩文:歌舞伎の科白)と小説(散文の会話)の科白を取り入れたことを考慮に入れて、連載の第5回目で行つた三島由紀夫の時代区分を元に、其の時代区分を、2.1(2)のところで、一層作り込みますと、次のやうになります。

1. 1925年~1930年:0歳~5歳:幼年時代:6年間

2. 1931年~1949年:6歳~24歳:遍歴時代:19年間
2.1 1931年~1945年:6歳~20歳: 抒情詩人の時代(ザインの時代:夜と月の時代):15年間

(1)1931年~1937年:6歳~12歳:   少年期1:7年
   ①1937年:12歳:『HEKIGA』:詩人になると自覚して書いた最初の詩集   ②1938年:13歳:『桃葉珊瑚(あをき)《EPIC POEM》』といふ日付の入った日記体の叙事詩(『木葉角』206~214ページ)
(2) 1938年~1940年:13歳~15歳:少年期2:3年
   ① 1939年:14歳:『日本的薄暮』(『Bad Poems』387~388ページ) といふ戯曲的科白のある典型的な詩
   ② 1940年:15歳:『少年期をわる』といふ詩(『公威詩集 III』630~631ページ)[註3]
(3) 1941年~1945年:16歳~20歳:詩文散文併存期:5年
   ①1941年:16歳:『花ざかり森』(「リルケ風な小説」)
   ②1943年:18歳:『中世に於ける一殺人常習者の遺せる哲学的日記の抜粋』(「短い散文詩風の」小説)

2. 2 1946年~1949年:21歳~24歳:詩人から散文家(ザインからゾルレンの言語藝術家)へと変身する時代:4年
この時期に安部公房に初めて会ふ。
(1)1947年:22歳:エッセイ『重症者の凶器』
(2)1948年:23歳:小説『盗賊』
(3)1949年:24歳:小説『仮面の告白』、最初の戯曲『火宅』

3. 1950年~1963年:古典主義の時代(ゾルレンの時代:太陽と鉄の時代):25歳~38歳:14年間

4. 1964年~1970年:晩年の時代(ダーザインの時代:ハイムケール(帰郷)の時代:10代の抒情詩の世界へと回帰する時代):39歳~45歳:7年間

といふ叙情詩と叙事詩、詩文と散文、戯曲と小説の関係の成り行きといふことになります。

[註3]
この時期に、『安部公房伝』(安部ねり著。164ページ)に、安部公房が三島由紀夫の幼少年時の苦しみについて語つたといふ「三島由紀夫の死なざるを得ないような幼少期のつらい体験」が三島由紀夫の身に起きたのかと思はれる。



上記の「三島由紀夫の人生の見取り図」を次のやうな図(pdf)にして表しました。ダウンロードは、次のURLへ:





このやうに考えますと、三島由紀夫の詩と戯曲を比較して論じることは、何ら特殊なことではなく、三島由紀夫の文学にとつて、むしろ大切な、重要な、本質的な(essential)ことだといふことになります。

(次回以降のどこかで、適切な契機があれば、十代の三島由紀夫の詩群に現れる様々な形象と共に、できるだけ早い時期に、三島由紀夫のが6歳で書いた最初の詩『ウンドウクアイ』と44歳の戯曲『癩王のテラス』を同列に論じ、また詩集としての『近代能楽集』を論じることに致します。)

次回は、三島由紀夫の使った記号の意味するものと題して、十代の三島由紀夫が詩の中で頻繁に使用してゐる次の記号を論じます。

特に1、2、6、7の記号の使い方は、最晩年にまで及ぶ小説と戯曲とエッセイの中でも、重要な意味を持ってをります。


1。「………」(点線)
2。「―――」(実線)
3。「”  ”」(引用符)
4。「( )」(丸括弧)
5。「「 」」(一重鉤括弧)
6。「《 》」(二重山括弧)
7。「『 』」(二重鉤括弧)


(続く)


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