2015年8月23日日曜日

三島由紀夫の十代の詩を読み解く9:イカロス感覚1:ダリの十字架(1):三島由紀夫の3つの出発


三島由紀夫の十代の詩を読み解く9:イカロス感覚1:ダリの十字架(1)

三島由紀夫研究家でゐらつしゃる岡山典弘さんに最近教へられて、三島由紀夫はダリが好きだといふことを知りました。

安部公房もシユールレアリスムに集中した若年の時期があり、さうして実際に芥川賞を受賞した『壁』という小説集は、シユールレアリスムの作品ですから、この藝術上の思潮について、ふたりは熱心に、そして本質的な議論と意見の交換をした筈です。その場所の一つは、わたしの知る限りは、六本木のキャンティであり、三島由紀夫邸の太陽の部屋(サンルーム)であつたことでありませう。

以下、わたしの『安部公房の変形能力14:シユールレアリズム』(もぐら通信第15号)より引用して、この藝術思潮が何かをお伝へします。:

「岩波文庫版『シュルレアリスム宣言 溶ける魚』(アンドレ•ブルトン著。巌谷國士訳)を参照することにします。

アンドレ•ブルトンの『シュルレアリスム宣言』が理論篇とすると、その実践篇である『溶ける魚』の冒頭を見て、その思潮が如何なる思潮であるかを読み取ることにします。冒頭は、次のように始まります。

「公園はその時刻、魔法の泉の上にブロンドの両手をひろげていた。意味のない城がひとつ、地表をうろついていた。神のそば近く、その城のノートは、影法師と羽毛とアイリスをえがくデッサンのところでひらかれていた。〈若後家接吻荘〉というのが、自動車のスピードと水平の草のサスペンションとに愛撫されているその宿の屋号だった。そんなわけで前の年にはえた枝々は、光が女たちをバルコニーにいそがせるとき、ブラインドに近づいて身じろぎひとつしなかった。若いアイルランド娘は東の風の泣きごとに心みだされながら、乳房のなかで海の鳥たちが笑うのをきいていた。」

以下、このような調子の文章が延々と続きます。

これは、言葉の眼、即ち言語の観点、そして譬喩(ひゆ)の視点からみると、この思潮は、隠喩(metaphor)の文を生成する運動と解することができます。しかも、意味のある言葉と意味のある言葉を掛け合わせて隠喩を作ることによって、無意味を創造する運動、有意味の言葉を掛け合わせて言葉に無意味という意味を割り当てる運動です。

無意味とは、non-sense(正確には無意義というべき)であるということを意味しますから、non-senseということから言っても、ここからそのまま、ルイス•キャロルの世界に通じています。

そして、このnon-senseということから、シュールレアリズムの言語世界は、時間の捨象がなされていて、空間的な造詣性を有します。即ち、関係の総体として、空間的にその関係が表されているのです。それは、勿論、non-senseということから、無関係な意味の総体です。

しかも尚、執拗なことに、その思潮の根底には、美への憧憬が隠れているとわたしは思います。この美は、シュールレアリズムにおいては、時間の捨象ということから、静寂な空間の創造ということに最初から至っています。ポール•デルヴォーの静寂な絵画、ダリの運動の静止した画像を思い出して下さい。これらの絵画には時間が存在しません。絵画という芸術の形式が、そもそもそのような性格のものだとしたとしても。」

ダリの絵は、まさに此の通りに、時間の存在しない静寂の空間、無意味の空間を常に描いてをります。この有名な垂れ下がつた時計の在る絵は、その空間を如実に、典型的に表してをります。



ダリに関する三島由紀夫の評言は、岡山さんに教わるところによれば、二つあり、ひとつは、評論「ダリ『磔刑の基督』」(『決定版 三島由紀夫全集』の第32巻102頁)であり、もう一つは、評論「ダリの葡萄酒」(同じ全集の第35巻143頁)にあるとのことです。今岡山さんに教へて戴いたところを、そのまま転載します。

「三島は、ダリの絵が好きでした。
わけてもワシントンのナショナル・ギャレリーの「最後の晩餐」と、ニューヨークのメトロポリタンの「磔刑の基督」を鍾愛しました。

「磔刑の基督」は、刑架がキュビズムの手法で描かれてをり、キリストも刑架も完全に空中に浮遊して、そこに神聖な形而上学的空間といふべきものを作り出してゐる。左下のマリヤは完全にルネッサンス的手法で描かれ、この対比の見事さと、構図の緊張感は比類がない。又、下方にはおなじみの遠い地平線が描かれ、夜あけの青い光が仄かにさしそめてゐる。
(三島由紀夫「ダリ『磔刑の基督』」)




ダリの「最後の晩餐」を見た人は、卓上に置かれたパンと、グラスを夕日に射貫かれた赤葡萄酒の紅玉のやうな煌めきとを、永く忘れぬにちがひない。それは官能的ほどたしかな実在で、その葡萄酒はカンヴァスを舐めれば酔ひさうなほどに実在的に描かれてゐる。
(三島由紀夫「ダリの葡萄酒」)」




[註1]
何故三島由紀夫が特に此の二つの絵を好んだかといふことは、この二つの絵を見ることから判る通りに、やはり対称性と対照性を重んじて描かれてゐるからです。この様式美は、何故三島由紀夫が、、その小説(『絹と明察』)の中に取り入れるほどに、また後年てづからドイツ語から訳してみるほどに、ヘルダーリンの詩を好むかといふ理由に通じてをります。ヘルダーリンの詩と三島由紀夫については、また稿を改めて論じます。



上の岡山さんより戴いた二つの文章を読んでみますと、わたしが思い出すのは、三島由紀夫が書いた『ワットオの《シテエルへの船出》』というエツセイの文章です。ダリについての上の引用は、このエッセイの文章にとてもよく似ています。このエツセイは、昭和30年、30歳、西暦1955年の発表。

ここで考えるべきは、三島由紀夫は、

1。絵画に何を見たのか、ということと、
2。絵画のどのような主題に惹かれたのか、ということ、

そして、

3。それ(上の1と2)は、そのことは、一体何であったのか、何であるのか、ということ(これは、そもそもの本質論)、更に、
4。それは、そのことは、三島由紀夫にとつて一体何であつたのか、何であるのか、何を意味してゐたのか、何を意味してゐるのかといふこと(これは、三島由紀夫にとっての個別の、しかし普遍的な、その文学との関係に於ける本質論)

この四つでありませう。

この問ひに答へるべく、三島由紀夫の言葉を考察し、さうして、上の四つの問ひ答へ、更に、詩と、もし出来うれば今のわたしの能ふる限りに小説や戯曲についても、論じることに致します。

この目的のために、『ワットオの《シテエルへの船出》』というエツセイに目を転じてみませう。ダリについての上の引用は、このエッセイの文章にとてもよく似てゐるのです。このエッセイは、新潮文庫『小説家の休暇』に収められてをります。



このエッセイによれば、ワットオは、ヨーロッパの17世紀のバロック時代と19世紀の時代の間の18世紀のロココ時代の画家です。ロココ趣味は、三島由紀夫に如何にも相応しいやうに思はれる。これに対して、安部公房は徹底的に、あらゆる点でバロックの藝術家です。誠に対照的な二人です。

三島由紀夫は此のエッセイの中で17世紀をワットオのこととして「制作者と鑑賞家との幸福な存在した古典主義の時代は、十七世紀とともに去つた」と言つてをります。これは、さう言ふことで、自分自身の十代の詩の世界のことを述べてゐるやうに、わたしには思はれる。何故なら、17世紀のバロックの時代は、決して三島由紀夫の趣味と好みの世界ではないから。更に、何故なら、それは安部公房好みの、怪奇と歪みと変形と螺旋と空間的な差異(即ち、三島由紀夫の源泉の感情の活き活きと生きる時間の差異、時差ではなく)と、ワットオの此の絵画の示すやうな、最初から目的地の明確な旅なのでは全くなく、尋ねれども尋ねれども果てのない旅であり、到達したその新しい現実もまた既に最初から贋物であることを出立前に知つてゐる其のやうな精神から生まれた趣味と感覚と形象が、バロック様式だからです。

この一文で判ることは、30歳の三島由紀夫が、「制作者と鑑賞家との幸福な存在した古典主義の時代」を虚構の中に求めてゐたといふことですし、実際に、この連載の『三島由紀夫の十代の詩を読み解く6:三島由紀夫の小説と戯曲の世界の誕生2:三島由紀夫の人生の見取り図3(一層詳細な見取り図)』で年表を製作して述べましたやうに、このエッセイを書いたときは、「1950年~1963年:古典主義の時代(ゾルレンの時代:太陽と鉄の時代):25歳~38歳:14年間」に当たるのですし、まさしくSollenの時代の三島由紀夫の意志として、森鷗外やトーマス・マンを模範として精励刻苦して、自分固有の文体を培つてゐたときでありました。

30歳の三島由紀夫は、或いは此処に描かれてゐる世界が「人間感情を直接にえがくことと同等の意味があつた」といふ自分の思ひから、この画家の絵を寓意画と呼ばうか、それともやはり此はこの世界そのものではないかと、「彼のえがく世界のこの二重構造を、どう呼んでよいか迷っ」てゐることを、第3章の最後に、率直に語つてをります。

さうして、続けて、第4章の最初に、「古典主義の時代のあの普遍への欲求、あらゆる情念を個性から離れた情念それ自体として描きうると考えた抽象精神、さういふものから一人の画家の天才が見事に身をかわした。」と書くときに、それが三島由紀夫自身についての言葉と解すれば、三島由紀夫はみづから、その Sollen(ゾルレン)の時代を否定しているやうに見えますが、しかしまた、その表面上の考への発言とは別に、その内面にある実際の感情をやはり率直に吐露してゐるのだと思はれます。何故ならば、三島由紀夫の後年のエッセイ『太陽と鉄』によれば、このエッセイを書いた時期は「古典主義の時代(ゾルレンの時代:太陽と鉄の時代):25歳~38歳」である筈のことだからです。これを矛盾と呼ぶべきかどうか、軽率な判断は差し控へます。

さて、しかし、ワットオについて、三島由紀夫が「彼は見えるままの幻を、構成し、画布の上に定着する。」と同じ章で書くとき、この心は、このエッセイで書いた古典主義時代であれ、晩年に過去を追想し追憶して『太陽と鉄』で書いた古典主義時代であれ、いづれにせよ、言葉の世界のことに置き換えれば、この言語藝術家の求めたことを書いてゐるのであり、この限りに於いて、三島由紀夫の求めたるものは変わらなかつたといふことができませう。従ひ、そこに、矛盾を感ずることは、三島由紀夫は、ないのです。

第4章の最後に、やはり三島由紀夫は、この画家を詩心ある人間として、従いほとんど自分自身のこととして、次のやうに語つてをります。

「衣裳の下から、重い鬘(かつら)の下から、この画家の手によつて消し去られた情念のあとの空白を、総括する画家の詩心は、そのあらゆる空白に詩を漲らす。それは画中の画、詩のなかの詩ともいふべきもので、ワットオは決して抒情的に詩情を詠つたりしたのではなくて、画家の目を以つて、まさに詩----、光のやうな透明な藝術作品----、を描いたのである。十九世紀末の象徴派詩人がワットオに共感を寄せたのは、理由のあることである。」(引用中「----」は原文は実線)

そうして、更に最後の第5章を次の言葉で始めます。

「(略)重要なのは、彼が詩のやうな画を描いたことではなくて、詩そのものを描いたことにあると云つたはうがいい。
 セザンヌの描いた林檎は、普遍的な林檎になり、林檎のイデエに達する。ところがワットオの描いたロココの風俗は、林檎のやうな確乎たる物象ではなかつた。彼はそのあいまいな対象のなかから、彼の林檎を創り出さなければならぬ。ワットオの林檎は、不可視の林檎だつた。」

やはり、ここでも此言葉を、最晩年の43歳のときのエッセイ『太陽と鉄』にある林檎論と引き比べてみませう。さうすると、Sollen(ゾルレン)の時代の三島由紀夫の林檎とDasein(ダーザイン)の時代の三島由紀がどのやうに違ふかといふことが解ります。Dasein(ダーザイン)の時代の『太陽と鉄』で、三島由紀夫は次のやうに言つてゐます。

「(略)、厳密に言つて、「見ること」と「存在すること」は背反する。
 自意識と存在との間の微妙な背理が私を悩まし始めた。
 (略)
 だが、世には、ひたすら存在の形にかかわる自意識といふものもあるのだ。この種の自意識にとつて、見ることと存在することとの背反は決定的になる。」

この背理を解決する考え方として、三島由紀夫は、「ひたすら存在の形にかかわる自意識」が、「そのやうな紅いつややかな林檎を外側から見る目が、いかにしてそのまま林檎の中へもぐり込んで、その芯となり得るかといふ問題である」と考へ、「林檎の内側は全く見えない筈だ。そこで林檎の中心で、果肉に閉ぢ込められた芯は、蒼白な闇に盲い、身を慄はせて焦燥し、自分がまつとうな林檎であることを何とかわが目で確かめたいと望んでゐる。林檎はたしかに存在してゐる筈であるが、芯にとつては、まだその存在は不十分に思はれ、言葉がそれを保証しないならば、目が保証する他はないと思つてゐる。事実、芯にとつて確実な存在様態とは、存在し、且、見ることなのだ。しかしこの矛盾を解決する方法は一つしかない。外からナイフが深く入れられて、林檎が割かれ、芯が光りの中に、すなはち半分に切られてころがつた林檎の赤い表皮と同等に享ける光りの中に、さらされることなのだ。そのとき、果たして、林檎は一個の林檎として存在しつづけることができるだらうか。すでに切られた林檎の存在は断片に堕し、林檎の芯は、見るために存在を犠牲に供したのである[註2]
 一瞬後に瓦解するあのやうな完璧な存在感が、言葉を以てではなく、筋肉を以てしか保障されないことを私が知つたとき、わたしはもはや林檎の運命を身に負ふてゐた。」(傍線筆者)

[註2]

この三島十代詩論の第1回の「1。安部公房と三島由紀夫の言語能力について」で、わたしの次のやうに書きました。下線部にご注目下さい。

「隠喩は従い、掛け算ですので、時間が存在しないのです。上のような言葉の無限、言葉の数かぎりない列挙、言葉の果てしなさを見て、その本質(関係、差異)を抽象化して、一つの名前で呼ぶこと、これが、全く異なる二つのものを接続する(積算:conjunction)ことの意義(sense)なのです。

さて、その名前を言うことによって、或いは名付けることによって、あなたは対象と自分との距離(差異)を0にすることができると思っているのです。それが、わたしの言い方で言えば、対象の名前を言えば、それは自分の延長(extension)であることを意味するという言葉の意味です。

一次元の時間の中で、即ち日常の生活の中で生きている私たちは、そのように思っているのです。

このこと、即ちこの足し算の世界の論理と感覚を、哲学の世界では外延(extensive)、即ち普通の言葉では延長と言い、掛け算の世界を内包(intensive)と言います。

内包とは、上の説明でお分かりの通り、果物という言葉、上位概念、即ち意義(sense)の発見です。この内包である意義(sense)に対して、足し算の和、外延のことを意味(meaning)と言います。(肯定する世界では、結局、掛け算か足し算しかないのです。)

言い換えれば、内包、即ち積算とは、この日常からの脱出であり、非日常と非現実の創造なのです。

わたしたちは、りんごを食している一瞬一瞬にはりんごを食べていると思っているのであって、果物を食べていると感じているのではないということです。

もしりんごを食べながら、これは果物であって、わたしが一瞬一瞬食しているのはりんごではない、果物(という何ものか)を食べているのであり、食べながら既にして食べ終わっているのだと思う少年がいたとしたら、それが三島由紀夫であり、また同時に安部公房という少年なのです。



ここに書かれてゐること、即ち見ることと見られることの関係の統合または融合は、『文化防衛論』の「国民文化の三特質」といふ章で書かれてゐる文化の「連続性と再帰性」の問題として、さうして『日本文学小史』で最後に歌物語としての、従い詩文としての源氏物語を引き合いに此の章でも主題として語り、この文脈で「文化の再帰性とは、文化がただ「見られる」ものではなく「見る」者として見返してくる、といふ認識に他ならない。」と主張する三島由紀夫の考え其のものなのです。

この林檎の譬喩(ひゆ)は譬喩以上の詩であり、詩そのものになつゐて、この見る者と見られる者と更にまた後者が見返す者といふ此認識と人間の在り方は、何故三島由紀夫が市ヶ谷で切腹の古式に敢へて則らずに、深く腹部を刺し貫いたのかといふ疑問に対する、三島由紀夫自身による明らかな説明になつてをります。

安部公房ならば、思考論理と生理感覚の問題として、さうして人間にとつての真理の問題として、存在の外部と内部、現存在(ダーザイン)の外部と内部を交換する、ひっくり返すこととして行ひ、事物を変形させたところを、三島由紀夫は自己の肉体の外部と内部を交換して、その双方を一致させ、安部公房の言葉に拠れば、次のことを三島由紀夫は図つたといふことになります。この安部公房の言葉は既に1966年のこのとき、三島由紀夫の死を予見し予言した言葉となつてをります。それは映画『憂国』の映画評です。

「(略)作者が主役を演じているというようなことではなく、あの作品全体が、まさに作者自身の分身なのだ。自己の作品化をするのが、私小説作家だとすれば、三島由紀夫は逆にこの作品に、自己を転位させようとしたのかもしれない。
 むろんそんなことは不可能だ。作者と作品とは、もともとポジとネガの関係にあり、両方を完全に一致させてしまえば、相互に打ち消しあって、無がのこるだけである。そんなことを三島由紀夫が知らないわけがない。知っていながらあえてその不可能に挑戦したのだろう。なんという傲慢な、そして逆説的な挑戦であることか。ぼくに、羨望に近い共感を感じさせたのも、おそらくその不敵な野望のせいだったに違いない。
 いずれにしても、単なる作品評などでは片付けてしまえない、大きな問題をはらんでいる。作家の姿勢として、ともかくぼくは脱帽を惜しまない。」(『映画「憂国」のはらむ問題』安部公房全集第20巻、176ページ)

安部公房の世界の言葉で言へば、三島由紀夫は存在に、存在自体にならうとしたのです。現存在(ダーザイン)にゐるままで。

さて、かうして、「不可視の林檎」である詩そのものとして存在する透明なる林檎を、自己の筋肉と其れによつて構成された肉体の問題として、(それは同時に美の問題でもありませうが、)白木の柱である肉体を白蟻として硝酸のやうに腐食作用を働かせる其のやうな言葉と一線を画するために、さうして其の言葉の「羽虫の群れのやうに襲いかかつて」来て「私の個性をとらえ、私を個別性の中へ閉ぢ込めようと」する言葉の其の腐食作用(『太陽と鉄』)に侵されない肉体そのものとしてあらしめるために、またそのやうな「言葉の機能に関するわたしの病的な盲信」を「取り除」くために、肉体を鍛えた三島由紀夫は、最晩年のダーザインの時代には、上のワットオの絵画にある此方(こちら)の岸辺からシテエル島へと旅立つたのです。

『太陽と鉄』には、『エピロオグ---F104』といふ最後に配置されたエッセイに、詩人としての此の出発の感覚と感動が、F104ジェット戦闘機の搭乗記録の言葉として、すべての点検が座席にあつて終わつた後にF104が大空を急上昇してゆく其のときに、次のやうに書かれてあります。

「わたしは幸福に充たされる。日常的なもの、地上的なものに、この瞬間から完全に訣別し、何らそれらに煩わされぬ世界へ出発するといふこの喜びは、市民生活を運搬するにすぎない旅客機の出発時とは比較にならぬ。
 なんと強く私はこれを求め、何と熱烈にこの瞬間を待つてゐたことだらう。私のうしろには既知だけがあり、私の前には未知だけがある。ごく薄い剃刀の刃のやうなこの瞬間。(略)
 私は久しく出発といふ言葉を忘れてゐた。致命的な呪文を魔術師がわざと忘れるやうと努めるやうに、忘れてゐたのだ。」(傍線筆者)

この時、三島由紀夫は、間違いなくシテエル島に旅立つたのです。三島由紀夫が詩人であるためには、高みを必要としたことは、この連載の第1回で詳細に論じた通りです。

さて、この久しく忘れてゐた出発といふ言葉について、『小説家の休暇』では、三島由紀夫は次のやうに書いてをります。それは、アラン・フウルニエの書いた『モオヌの大将』といふ小説を評したところです。

「七月四日(月)
 (略)
 私はこの小説を読んで、ひさびさに「出発」といふ言葉に、胸のときめきを感じた。
 「モオヌは突然立ち上がつて、……
  ―――さあ、出発だ!と叫んだ」
 私はあの短い世界一周旅行のこのかた、出発といふ言葉の語感に、うとくなつてゐた自分を恥じた。」(傍線筆者)

三島由紀夫は『小説家の休暇』を書いてゐたときは、1955年、30歳。『エピロオグ---F104』といふエッセイを書いたときは、1968年、43歳。

さうして、その前の出発、即ち古典主義とSollenの時代に入るために、ギリシャへと旅行をするために上の日記で「あの短い世界一周旅行」へと書いた出発をしたのが、1951年、26歳。かうしてみますと、

1。1951年:26歳:Sollen(ゾルレン)の時代、古典主義の時代
2。1955年:30歳:同上
3。1968年:43歳:Dasein(ダーザイン)の時代、ハイムケール(帰郷)の時代

この3度、三島由紀夫は出発を思ふたといふことになります。

この3度の出発が、それぞれどのやうな意義を三島由紀夫の人生に持つてゐたかは、やはりその人生に於いて何か歴然たるものがあります。

1は、ギリシャの旅へ出発して、森鷗外とトーマス・マンに習つて、その文体を確立したいと決心したとき。
2は、肉体を、上述の理由から鍛錬したいと決心したとき。
3は、18歳の『中世に於ける一殺人常習者の遺せる哲学的日記の抜萃』の海賊頭の命令に従って、未知なる海へと跳躍し、出帆しようとしたとき。

といふことになります。

さて、三島由紀夫が十代の詩人の時代から、詩人としてあるためには高みを必要としたといふことは、既に此連載の第1回の『三島由紀夫の十代の詩を読み解く』で詳細に論じた通りです。最晩年のこのときにも、詩人としての三島由紀夫が、今度は成層圏にまでの高みに昇つて、未知の世界へ出発したといふことになります。その瞬間を、三島由紀夫は「熱烈に待つてゐた」。一体いつからでありませう。

いふまでもなく、18歳のときに、16歳の小説『花ざかりの森』の発展形として、その過去を追想し追憶する人間の持つ論理をすべて逆転させ転倒させて創造した二人の登場人物、即ち『中世に於ける一殺人常習者の遺せる哲学的日記の抜萃』の中に造形したあの殺人者(藝術家の範型)に対して、同じ作者である三島由紀夫自身が其の地の文に於いて其の対極の人間として造形した海賊頭をして「海であれ、殺人者よ。海は限界なき有限だ。玲瓏たる青海波(せいがいは)に宇宙が影を落とすとき、その影は既にあつたのだ。」と言はしめ、また「何を考えてゐるのか、殺人者よ。君は海賊にならなくてはならぬ。否、君は海賊であつたのだ。今こそ君はそこへ帰る。それとも帰れぬと君はいふのか。」(傍線は原文傍点)と言はしめる其の当の海賊頭の命令に、F104に搭乗した三島由紀夫は、従つたのです。

青海波の青は、十代の詩で数多く歌つたあの大空の青であり、『花ざかりの森』の最後の数行で、水面に映つて空の青を浮かべたあの泉の青でありませう。

上で引いた『太陽と鉄』には、十代の詩に深く関わる言葉が幾つも書かれてをります。曰く、詩人としての高みを保証する部屋(搭乗機の空間)、従い窓、再帰的な蛇、既知と未知、太陽や雲や空やの自然の、生命の構成要素、そして、庭、静止等々。これらの主題と動機については、ひとつづつ論じて参ります。

さて、大空高く舞い上がつて見たものが、「それは死よりも大きな環、かつて気密室で私がほのかに匂ひをかいだ死よりももつと芳香に充ちた蛇、それこそはかがやくて天空の彼方にあつて、われわれを瞰下してゐる統一原理としての蛇だつた。」と書いた以上、詩人三島由紀夫は、ここからは、天から落下し、失墜する以外にはありません。

それ故に書かれ、最後に置かれた『イカロス』といふ題名の詩であるのです。この詩の最後の4行は、やはり三島由紀夫の十代の詩人の時代からの一生涯の主題であつた次の言葉で終わつてをります。

「未知へ
 あるひは既知へ
 いづれも一点の青い表象へ
 私が飛び翔たうとした罪の懲罰に?」

さて、以上のことから判りますやうに、ここでは充分には論じ得てゐないものの、しかし、『太陽と鉄』『文化防衛論』『日本文学小史』は、三つながら一体として論せらるべきものです。

随分と遠廻りを致しました。最初のことに戻りませう。何故三島由紀夫はダリの『磔刑の基督』が好きなのかといふ問ひです。

三島由紀夫は平岡公威といふ名前の6歳の少年であつたとき、やはり既にして十字形を歌つた詩を歌つてをります。それは、学習院初等科の最初の歳に経験した運動会を歌つた詩です。この連載の第8回『三島由紀夫の十代の詩を読み解く8:三島由紀夫の『文化防衛論』と安部公房』にて引用した次の詩です。


「ウンドウクヮイ

(一)
 一バンアトカラ二バンメノ十ジツナヒキ
 オモシロイカツトフウセンフハリフハリフハリ

(二)
 一バンアトカラ二バンメノ十ジツナヒキ
 オモシロイムカデノヤウニゴロゴロゴロ」


いや、この詩に潜む十字形を論ずる前に、冒頭にわたしの掲げた次の問ひに答へませう。

「ここで考えるべきは、三島由紀夫は、

1。絵画に何を見たのか、ということと、
2。絵画のどのような主題に惹かれたのか、ということ、

そして、

3。それ(上の1と2)は、そのことは、一体何であったのか、何であるのか、ということ(これは、そもそもの本質論)、更に、
4。それは、そのことは、三島由紀夫にとつて一体何であつたのか、何であるのか、何を意味してゐたのか、何を意味してゐるのかといふこと(これは、三島由紀夫にとっての個別の、しかし普遍的な、その文学との関係に於ける本質論)

この四つでありませう。」

と、わたしは書きました。

さうであるならば、

1。絵画に何を見たのか

ワットオの絵画に詩そのものを見た。透明な林檎を見た。その林檎の中には、シテエル島といふ「「その島に在るものが、「秩序と美、豪奢(おごり)、静けさ、はた快楽(けらく)」の他のものではない」と、三島由紀夫が此のエッセイの最後に書いた通りのものを見たといふことになり、その島に向かつて、30歳の三島由紀夫は出発しようと思つてゐた。

2。絵画のどのような主題に惹かれたのか

やはり出発といふ主題に惹かれた。それも、人間同士の会話の無い静寂の空間の中で[註3]永遠に出発する人間たちを描いたといふ其のことと、海を渡るといふことと、その海の向かふに未知の島があり、その島に存在するものが上の1に引用した「秩序と美、豪奢(おごり)、静けさ、はた快楽(けらく)」であるといふ主題に惹かれた。

[註3]
三島由紀夫は『ワットオのシテエルへの船出』の中で次のやうに此の絵画の画面にある静寂を述べてをります。

「溺れるばかりに同じ黄昏の光線に涵(ひた)つてゐるけれど、人々はほとんど語り合はない。ワットオの絵に耳をすますがいい。音楽や歌は聞こゑてくるが、会話は決して聞こゑて来ない。啞(おし)の身振で、思ひをこめて、男は女を見つめ、女はあらぬかたを見つめてゐる。ワットオは言葉を描かなかつた。このクレビーヨン・ル・フィスの同時代人は、言葉だけが嘘をつくことを知つてゐたから。」


この静寂は、十代の初期から最晩年の『天人五衰』に至るまでにも、三島由紀夫が其の名を生まれた無名の時と、其の後に平岡公威と名付けられ、更に人に名付けられて三島由紀夫と呼ばれた人間が、最晩年の死に至るまで、求め続け、願い続けた静寂であることは、読者承知のことでありませう。



3。それ(上の1と2)は、そのことは、一体何であったのか、何であるのか、ということ(これは、そもそもの本質論)

それは、1955年、三島由紀夫30歳のときに当たつて、最晩年に『太陽と鉄』で論じるやうな出発の契機、即ち「人々の信じてゐるあいまいな相対的な存在感覚の世界を、その見えない逞しい歯列で噛み砕き、何らの対象の要らない、一つの透明な光のやうな、力の感覚の只中に」三島由紀夫を「ゐ」せしめる筋肉を獲得するための出発であつたといふことになります。

この引用を読みますと、18歳の『中世に於ける一殺人常習者の遺せる哲学的日記の抜萃』の海賊頭に変身しようと、三島由紀夫は考へたことが判ります。何故ならば、「俺たち」海賊にとつて、「未知とは失はれたといふことだ。俺たちは無他だから。」であり、「何らの対象の要らない」人間であるからです。この海賊頭といふ登場人物は、十代から三島由紀夫のこころの中に棲むもうひとりの三島由紀夫自身です。

4。それは、そのことは、三島由紀夫にとつて一体何であつたのか、何であるのか、何を意味してゐたのか、何を意味してゐるのかといふこと(これは、三島由紀夫にとっての個別の、しかし普遍的な、その文学との関係に於ける本質論)

三島由紀夫の生涯を振り返へれば、以上1から3の回答で回答したところのものを、またこの論考の本文で見たところのものを意味してゐたといふことになりませう。

三島由紀夫は、15歳の少年平岡公威として、既に詩として最晩年の『太陽と鉄』を歌つてをります(決定版第37巻、500ページ)。

「太陽の含羞(はぢらひ)

太陽はお納戸と鉄の青だ
  ああ輪廓は静寂そして若さ激しさ


長くみつめると太陽は
  黄色フィルタァを我が目に据ゑる


雲のさなかに黄色い丸
  青空にきいろい丸
  日の含羞(はぢらひ)のしるしでせうか


太陽の色は


お納戸と鉄の青だ

(十五・四・十五)」


この詩で歌はれてゐますのは、F104に搭乗して大空に上昇して行き到達する、其の「小部屋」といふ「お納戸」に存在する「静寂」の空間であり、そしてまた同時に其処に至らしめることを可能にした、後年の三島由紀夫の上述の筋肉からなる肉体が三島由紀夫に授ける「若さ激しさ」でありませう。

さて、この15歳の詩で歌つた「黄色い丸」は、死を間近にした最晩年に於いては、「それは死よりも大きな環、かつて気密室で私がほのかに匂ひをかいだ死よりももつと芳香に充ちた蛇、それこそはかがやく天空の彼方にあつて、われわれを瞰下してゐる統一原理としての蛇だつた」其のやうな黄色い蛇に変じるのです。いや、黄色い蛇が、それであつたといふべきでありませう。三島由紀夫一生の、これは、探究であります。[註4]

[註4]
もつと、この蛇のことを続けますと、次のやうに44歳の三島由紀夫は、15歳の「黄色い丸」を、F104搭乗記の最初の一行で「私には地球を取り巻く巨きな巨きな蛇の環が見えはじめた。すべての対極性を、われとわが尾を噛みつづけることによつて鎮める蛇」と散文で書いてをります。

さうして、次のやうに続けます。傍線筆者。

「すべての相反性に対する嘲笑をひびかせてゐる最終の巨大な蛇。私にはその姿が見えはじめた。
 相反するものはその極致にをいて似通い、お互ひにもつとも遠く隔たつたものは、ますます遠ざかることによつて相近づく。蛇の環はこの秘儀を説いてゐた。肉体と精神、感覚的なものと知的なもの、外側と内側とは、どこかで、この地球からやや離れ、白い雲の蛇の環が地球をめぐつてつながる、それよりもさらに高方にをいてつながるだらう。
 私は肉体の縁(へり)と精神の縁、肉体の辺境と精神の辺境だけに、いつも興味を寄せてきた人間だ。深淵には興味がなかつた。深淵は他人に委せよう。なぜなら深淵は浅薄だからだ。深淵は凡庸だからだ。
 縁の縁、そこには何があるのか。虚無へ向つて垂れた縁飾りがあるだけなのか。」

この散文を書いた三島由紀夫は44歳であり、1970年に亡くなる1年前の文章です。この同じことを、20歳の三島由紀夫は、次のやうに、『もはやイロニイはやめよ』と題した詩で歌つてをります。最後の7行に注目下さい。傍線筆者。

「もはやイロニイはやめよ
 イロニイはうるさい
 巷には罹災者のむれ
 大学は休講つゞき
 大学生はやたらに煙草を吹かす
 湊の霧のなかで数しれぬ帆柱にまたたく
 檣灯のやうに
 来ぬ教授を待ちながら
 大学生は煙草を吹かす
 もはやイロニイはやめよ
 もはやイロニイは要らぬ 
 急げ今こそ汝の形成を
 汝の深部に於いてより
 汝の浅部に於いて
 ああ汝の末端に
 急げ汝の形成を
(決定版第37巻、749~750ページ)

先の戦争の終わつたのが、1945年、昭和20年の8月15日とすると、この詩は、6月と日付があるので、その2ヶ月前に書かれたことになります。

大学の授業に出席しても、授業が成り立たなかつたのでありませう。何か少し捨て鉢な、やけな気分のある詩です。

しかし、いづれにせよ、何があつたにせよ、三島由紀夫はが決心したことは、若いくせに大人の真似をして煙草を吸ふやうな、世間に楯突いて嫌ふやうな態度、即ちイロニイはやめて、何故ならそんなことは、煙草の煙で自分の周りに煙幕を張つて人を遠ざけて「湊の霧のなかで数しれぬ帆柱にまたたく/檣灯のやうに/来ぬ教授を待」つやうなものであるから、さうやつて煙幕をはつて、待てど来ぬやうな知識をあてどなく待つのではなく、もっと現実に触れて、現実を見て、即ち「急げ今こそ汝の形成を/汝の深部に於いてより/汝の浅部に於いて/ああ汝の末端に/急げ汝の形成を」と、20歳の三島由紀夫は決心したのです。

この20歳の決心は、F104搭乗記の冒頭を読む限り、このときまで、全く変はることがなかつたことを意味してゐます。即ち、『三島由紀夫の人生の見取り図』による下記の25年の間、この二十歳(はたち)の決心は、変わることがなかつたのです。この間、三島由紀夫は散文家であつたといふことになります。

2. 2 1946年~1949年:21歳~24歳:詩人から散文家(ザインからゾルレンの言語藝術家)へと変身する時代:4年
この時期に安部公房に初めて会ふ。
(1)1947年:22歳:エッセイ『重症者の凶器』
(2)1948年:23歳:小説『盗賊』
(3)1949年:24歳:小説『仮面の告白』、最初の戯曲『火宅』

3. 1950年~1963年:古典主義の時代(ゾルレンの時代:太陽と鉄の時代):25歳~38歳:14年間

4. 1964年~1970年:晩年の時代(ダーザインの時代:ハイムケール(帰郷)の時代:10代の抒情詩の世界へと回帰する時代):39歳~45歳:7年間


この縁と縁の探究者であるといふ三島由紀夫の考えと実践は、その方向が正反対であつたとはいへ、全く安部公房と共有する接点でありました。何故ならば、これは、安部公房の思考論理でもあるからです。それ故に、後者は「彼との接点は、全部うらがえしになっている。」(「『対談』[対談者]大江健三郎、安部公房」安部公房全集第29巻、73ページ下段)と回想してゐるのです。どのやうに「全部うらがえしになっている」かは、三島由紀夫の十代の詩を論ずる中で、自づと出て参りませう。



44歳の三島由紀夫は、15歳の「お納戸」を「気密室」と呼んでをります。この閉鎖空間の中にあると、三島由紀夫は「ほのかに」死の匂ひを嗅ぐのです。

わたしの天才概念の定義は、次のやうなものです。

天才とは、十代に(或いは一桁の年齢のときに「既にして」)自分自身の人生の未来を予見し、予言してゐる者である。

安部公房然り、三島由紀夫然り、後者の好きであり古典主義時代に範としたドイツの文豪トーマス・マン然りであります。

次回は、掲題に名前を挙げたダリの十字架と三島由紀夫の十代の詩を論じます。










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