2009年8月13日木曜日

リルケの空間論(個別論3):悲歌5番

この悲歌の第8連の後半、次々と姿態を変えていってもバランスの崩れない女性の曲芸師のことを、そのように歌った後に、第9連の冒頭が、その場所はどこにあるのだろうかと始まるのですが、この場所とは、この文脈からいって、バランスの中心のある場所、そうして、第1連の歌い方から、それが単に曲芸の展開される絨毯の話が、宇宙空間の中にある、様々の変化のある場所の話に変位していますので、宇宙のバランスの中心のある場所を指していると読むことができます。このように、像を二重に写して、想像してみましょう。

第2連の冒頭で、リルケは、次のように歌っています。これは、やはり第1連の後半部で、屈強な男たちの激しい技を歌った後に、続くものです。

Ach und um diese Mitte, die Rose des Zuschauns: blüht und entblättert.

ああ、そうして、この中心、真ん中に、
観ることの薔薇が、咲いては、散るのだ。


ここでわかることは、リルケは、宇宙の中心には、薔薇があるといい、この中心を薔薇にたとえていること。それから、この中心は、観ることによって在る薔薇だということ。さらに、曲芸の展開を、花、その薔薇が咲いてから散るまでのことに比しているということ。
これら3つのことです。

何故リルケは、千変万化する技の連続に、すなわち森羅万象の変化する宇宙の中心に、薔薇という花の名前をあげたのでしょうか。この問いに答えることは、もう少し後にして、第9連の冒頭の場所の話に戻りましょう。

この場所は、バランスの中心のある場所でした。第10連で、その場所が別の表現をとって、少し詳しく歌われます。再度引用します。

Und plötzlich in diesem mühsamen Nirgends, plötzlichdie unsägliche Stelle, wo sich das reine Zuwenigunbegreiflich verwandelt -, umspringtin jenes leere Zuviel.Wo die vielstellige Rechnungzahlenlos aufgeht.

そうして、そこに突然、不意に、この疲れたどこにもない場所の中に、突然、不意に、言いがたき場所、名状しがたい場所、言葉では言い表すことのできない場所が、現れ、そこでは、純粋な過少が、何故かは解らないが、不思議なことに、変身し、跳躍して、あの空虚な過多に、急激に変化する。そこでは、桁数の多い計算が、数限りなく、無限に開いて行く。

Plötzlich、プレッツリッヒ、突然に、不意に、脈絡なくという副詞が使われるところでは、悲歌の中では、なにかあるものが、ある空間から別の空間へと時間とは無関係に移動して、後者の空間の中へと姿をあらわすことを意味するのでした。これは、天使論(2009年7月4日)で書いた通りです。この場合も同様です。

バランスの中心である、「この疲れたどこにもない場所の中に」、Plötzlich、プレッツリッヒ、突然に、不意に、脈絡なく、「言いがたき場所、名状しがたい場所、言葉では言い表すことのできない場所」が現れるのです。この場所は、第10連の歌うところによれば、愛する者たちと呼ばれる人間たちが、示すことはできても、その場所で、実際に彼ら、彼女らの、無償のこころ、犠牲や奉仕の精神や忍耐のこころを以ってしても、愛の力だけでは、その成果をものにすることができなかった、そのような場所と歌われています。愛する者たちは、死者たちが観ているということの力を借りて、その極限の姿を、みせることができるかも知れないと歌われています。

したがって、それは、想像を絶する極限の場所とも考えられますし、そこはまた、死者たちのいる空間とも考えられます。確かに、どこにもない場所の中にある名状しがたき場所、言葉でいえない場所です。しかし、そこでは一体何が起こるのかということをリルケは歌っていますので、これを頼りに、この場所がどういう場所なにかを考えてみることにしましょう。

wo sich das reine Zuwenigunbegreiflich verwandelt -, umspringtin jenes leere Zuviel.Wo die vielstellige Rechnungzahlenlos aufgeht.

そこでは、純粋な過少が、何故かは解らないが、不思議なことに、変身し、跳躍して、あの空虚な過多に、急激に変化する。そこでは、桁数の多い計算が、数限りなく、無限に開いて行く。

ここでリルケは、次の2つのことを言っています。

1.ここでは、純粋な過少が、あの空虚な過多に、急激に変化する、転ずる。
2. ここでは、桁数の多い計算が、数限りなく、無限に、行われる。

既に「天使論」で論じたことですが、Plötzlich、プレッツリッヒ、突然に、不意に、脈絡なくという副詞が使われることによって、わたしたちは、リルケの空間には、少なくともひとつの時間が存在するということを知っています。このことを思い出すと、上記の2は、まったくその通りです。

リルケのこの空間では、いくら桁数の多い数を計算していっても、終わることがありません。この演算は、無限に続くのです。これは、時間が無限に延々と続くのです。決して収束することがありません。しかし、空間というものは、どの空間もそのようにできているのではないでしょうか。今わたしたちがいるこの空間の中のことを思っていても、永遠に時間があるように見えます。1,2,3と数を勘定すると、無限に続いて果てがないように見えます。リルケの空間は、一般的なわたしたちの空間と同じではないでしょうか。

このことから、上記1の後半が何を意味しているかが、わかります。

あの空虚な過多に、急激に変化する、転ずる。

あの、とリルケはいってます。これは、読者も既に知っていることを前提にしているものの言い方です。あなたも知っている、あの過多、なのです。わたしたちは、既に知っているのではないでしょうか。いかに過多なものが、このわたしたちの空間を満たしているかを。しかし、これは実際に過多なのでしょうか、そう見えるだけなのではないでしょうか。リルケは、そう考えているのだと思います。ですから、空虚な過多、といっているのだと思います。

あの空虚な過多というときの「あの」を、わたしたちの住むこの空間との関係でこのように理解すれば、詩の理解を容易にするということから、一種の方便として、わたしは、「あの」をそのように言い換えてみましたが、それによって理解をしたことを基にして、さらにもう一度詩の「あの」に着目すると、これは、そのような意味での「この」過多の話だけではなく、だれでもが一度は経験して知っている「あの」過多の話だということがわかります。あなたも、わたしも、そのほかのだれもかれもが、一度は経験して知っている「あの空虚な過多」なのです。「あの空虚な過多」とは一体なんでしょうか。それも、やはり、あるひとつの空間の中で数限りがなく、ものが存在しているように見えているということ、なのだと思います。しかも、絶妙なバランスの中心の存在があって、はじめて。

それとも、リルケは、この「あの」という言葉を、自分自身に向かって言ったのでしょうか。そのようにとることも可能だと思います。そうだとしても、上の解釈は、通用すると思います。

何故、その空間の中に数限りないものが存在し、すなわち無限が存在しているように見えているのかというと、それはそもそも、das reine Zuwenig、ダス・ライネ・ツーヴェーニッヒ、純粋な過少から始まったことだというのです。これが、jenes leere Zuviel、イェーネス・レーレ・ツーフィール、あの空虚な過多に変化した。純粋な過少とは、一体なんでしょうか。

話が少し横道に入るようですが、リルケが使っているふたつの言葉、純粋な過少の過少、Zuwenig、ツーヴェーニッヒとあの空虚な過多、Zuviel、ツーフィールについて考えてみます。前者は、少ないこと(wenig、ヴェーニッヒ)が過剰なのであり、後者は、多いこと(viel、フィール)が過剰なのである。ともに共通する言葉は、Zu、ツー、過剰という言葉です。この場合、リルケは、どんな基準に照らして、それぞれが過剰か、その基準を特に示してはいませんが、極端から極端へと秤の針が大きく振れるようです。秤がそうであるように、こうして考えてくると、バランスの中心、宇宙の中心に照らして、それぞれ、過少過多といっているのだということがわかります。これは、悲歌5番の最後の連で、曲芸師の一組のカップルを考えて、その永遠の釣り合いのことを歌っていたり、また第3連で年老いた曲芸師の皮膚の中にはふたりの男がいるのだと歌っていることに通じているのだと思います。こうして考えると、何故リルケがそれらをそのように表現したかが、よくわかります。

さて、純粋な過少とは、一体何でしょうか。秤の比喩で考えみると、それは、バランスの中心が現れるには、少なくとも2つのものがなければ、現れない、すなわち秤が平衡(バランス)にならないことから、わたしは、この純粋な過少とは、自然数でいうならば2という数字、2という数、これがリルケの言っている純粋な過少だと考えます。

それでは、何故2という少から多が生まれるのでしょうか。

それに答える前に、純粋な過少の純粋なとは、何をいっているのかを考えてみたいと思います。

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