2009年9月24日木曜日

言葉の楽しみ、いやよろこびか


今日、los celosという言葉を知った。これは、スペイン語で嫉妬という意味であるが、los celosというはじめてみる言葉と、それが嫉妬という意味だということを知ることが、よろこびであった。

こころの底から、そのようなよろこびが、湧いてくる。

ドイツ語を学び始めたときのことを思い出した。

今リルケを読んでいて、そのよろこびがあるかを自問自答する。それがなければ、オルフェウスへのソネットを読んでも、意味がないなと思うが、しかし、これも青臭い考え、侠気の一種かと思えもする。何に対する侠気であるか。これは、英語でいうとプライド、というのであろうか。なんだか、先週の土曜日お会いした須永紀子さんのある詩の最後の2行のようだ。それを護るために生きてきたのだ。というと、もっと格好いいということになるだろう。

が、そんなことではない。

今でも、ドイツ語に触れること、これは文字通りに触れることは、よろこびである。また、昨日は、日がな、アメリカ名詩選(岩波文庫)を読んでいたのだが、英語の原詩に触れること、そうして日本語との間をいったりきたりすることも、かけがえのない、よろこびであった。

これは、一体どういうことであろうか。

また、関口存男の初等ドイツ語文法書を読み返すことにしよう。それから、真鍋先生の洒脱な語学の本も。

2009年9月23日水曜日

オルフェウスへのソネット1部のソネット2番の第2連から第4連

1章 

II-2から4連

残りの2連から4連を読んでみる。各連づつ、散文訳をつけてみる。事前の予想では、訳をつけてみたら、それで終わってしまって、解釈とか鑑賞とか感想とか、なにも書けなくなっているかも知れないけれども。

Und schlief in mir. Und alles war ihr Schlaf.
Die Bäume, die ich je bewundert, diese
fühlbare Ferne, die gefühlte Wiese
und jedes Staunen, das mich selbst betraf.

そうして、(その娘は)わたしの中で眠った。そして、すべては彼女の眠りであった。

木々、わたしがいつも驚嘆している木々が、この感じることのできる距離が、感じている草原が、それから、わたし自身を打った驚きのひとつひとつが。

Sie schlief die Welt. Singender Gott, wie hast
du sie vollendet, daß sie nicht begehrte,
erst wach zu sein? Sieh, sie erstand und schlief.

娘は、世界を眠った。歌っている神よ、お前はどのようにして、さあ起きよう、目覚めようと願わないように、娘を完成したのだ?見よ、娘は立って、そうして眠っていた。

Wo ist ihr Tod? O, wirst du dies Motiv
erfinden noch, eh sich dein Lied verzehrte? —
Wo sinkt sie hin aus mir?... Ein Mädchen fast...

娘の死は、どこにあるのだ?ああ、お前は、お前の歌がみづからを食い尽くさぬ前に、このモチーフをまだ発明することになるのだろうか? 娘は、わたしの中から外へと出て、どこに沈んでゆくのだろうか? ほとんど娘であるものが…..

2連から見てみよう。この語り手の中に娘が眠っている。すべては娘の眠りだったという文をドイツ語では書けるのだなあ。日本語で書いても、やはり同様に意味があるのだろうか。この意味は、解釈すると、娘が世界を夢見るという文ならわかるが、世界を眠るというのであるから、娘が世界を眠らせたという意味なのか、そうして眠らせた結果世界が眠っているのか、実はよく、うまく言えない。しかし、この文は何か深いことをいっているように思うのだが。

木々や距離や草原の例を列挙していることから感じ考えると、世界は娘の眠りであるとは、わたしたちの廻りに現実に存在するものがすべて、眠りそのものからなっているという意味に解釈することができる。娘が眠っているから(夢ではない)、ものとして存在している、眠りであるものたち。

3連目をどうやら先走って考えてしまったようだ。娘は世界を眠っている。神が娘をこのように眠らせていることがわかる。しかも、立って眠っていたとは。

時間、時制、tenseの話をすると、2連と3連の時間は、過去である。過去の事実として語り手は述べている。

4連に来ると、時間は、現在形に戻る。と、こう考えて来ると、語り手は、時間の中を自由に行ったり来たりして話しをしているようだ、いや歌っているようだ。

4連目でわからないのは、語り手であるわたしの中から娘が出て行くと、沈んでいくということである。何故沈んでいくのだろうか。この問いの答えは、また後のソネットの中に出てくるのであろうか。

そうして、やはり、最後にも出てくる、ほとんど娘である娘という表現、これは何を言いたいのかということである。前回は、性の文化した後の乙女に近づけて読んだが、あるいは逆に少女、子供としての女の子に近づけで読むべきなのだろうか。わからない。リルケは何を言いたいのか。

それから、文法的なことを言えば、娘というドイツ語、Mädchen、メートヘェンは、中性名詞であるのにもかかわらず、リルケは、それを彼女、sie、ズィーで受けているということである。中性名詞ならば、es、それが、で受けたり、所有代名詞ならば、sein、彼の、で受けるのではないかと思うが。こういうことがあるのだという例であろうか。

それから、もうひとつ、文法的におもしろいのは、3連の

O, wirst du dies Motiv
erfinden noch, eh sich dein Lied verzehrte?

ああ、お前は、お前の歌がみづからを食い尽くさぬ前に、このモチーフをまだ発明することになるのだろうか?

というところである。従属文の動詞が過去形で、主文の動詞が未来形(あるいは現在形)になるのだろうかということである。これは、書いていく順序が前から書いていくわけであるから、意識がそのように動く、変化するということなのであろう。わたしたちが日本語で書いていても、ありそうである。

2009年9月22日火曜日

オルフェウスへのソネット1部のソネット2番の第1連

1章 

II

前回のところから。今日少しひっかかって、どうも前回言い残したことがあるらしいと気がついた。それは、

ein Unterschlupf aus dunkelstem Verlangen
mit einem Zugang, dessen Pfosten beben, —
da schufst du ihnen Tempel im Gehör.

という最後の連の、

暗い欲求から生まれた、隠れ場所、避難場所があったのであり、

というところです。

Unterschlupf、隠れ場所、避難場所という言葉のドイツ語は、何かの下をするりとうまく潜り抜けて得た場所という意味なので、何か災厄が来たり、困難に見舞われたりしたときに、するりとその下を潜り抜けて(これがUnterschlupf、ドイツ語の音の通りです)、隠れ家に至るというわけですが、これは、動物たちがやむにやまれず見つけた場所ということなのでしょう。

それが、aus dunkelstem Verlangen、一番暗い欲求から生まれたとあるのはどういうわけかというのが、わたしのひっかかっている疑問です。何もすることができないで、ただ聞いているだけであるから、その受身の状態が招来するのが、最も暗い欲求ということなのか。攻撃することを知らないわけであるから。だから、このソネット1番の動物たちは、普通の動物たちではないということになる。それが、沈黙から生まれてきた、沈黙から出てきた動物たちという言葉の意味なのでしょう。それゆえ、その棲む森は、klar、クラール、清澄で、澄んでいて、解放されている森(der geloeste Wald)ということなのでしょう。禁忌のない森。禁止の命令から解放されている森。そのように理解することにいたしましょう。

(なんだか、こうしてドイツ語のテキスト、あるいは英語のテキストでもよいのであるが、このようにテキストを読んで、解釈して、それをこのように書いているときが一番楽しく、幸せである。このような時間に、詩が生まれるとよいなと思う。最近であった詩で、倉田さんのブログに引用されていた西脇順三郎の詩が素晴らしかった。このような詩を書きたいものだ。この括弧の中の別世界にて、引用を赦されよ。

灯 台 へ 行 く 道
              
                   西 脇 順 三 郎

     まだ夏が終わらない 灯台へ行く道
     岩の上に椎の木の黒ずんだ枝や
     いろいろの人間や小鳥の国を考えたり
     「海の老人」が人の肩車にのって
     木の実の酒を飲んでいる話や
     キリストの伝記を書いたルナンという学者が
     少年の時みた「麻たたき」の話など
     いろいろな人間がいったことを
     考えながら歩いた

                                         )

さて、ソネット2番の話に入ることにしよう。

これも、わからないところだらけで

ある。

まづは、第1連をそのまま引用して

考えてみる。

UND fast ein Mädchen wars und ging hervor
aus diesem einigen Glück von Sang und Leier
und glänzte klar durch ihre Frühlingsschleier
und machte sich ein Bett in meinem Ohr.

最初のUND、ウント、英語でいうANDの意味はいかなるものであろうか。その次に、fast ein Mädchen wars、ほとんど娘である娘がいた、とは、これは何をいっているのだろうか。

最初のそうしてとは、昔々あるところにお爺さんとお婆さんがいましたというときの、once upon a timeであろうか。ほとんど強引に、リルケのこの詩の語り手は、Undといってから、突然、今度は、前のソネットとは脈絡なく(ここまで時系列で読んでくるとそう思われるが)、この、ある娘を登場させる。この娘もしかし、ある娘ではあるが、しかしほとんど娘である、ある娘なのである。これは一体いかならむというのがわたしの問いである。

上の原詩の引用の3行目に、ihre Frühlingsschleier、彼女の春のヴェールとあるので、この女性によって春を暗示してもいることから、この女性は、子供から少女へ、乙女といってよい年齢の女性をいっていると思われる。性未分化の子供から、女性という性へと分化した人間の、ある年齢の女性ということではないだろうか。この彼女の春のヴェールを通じて、この娘は光かがやいているのであるが、その輝きようは、klar、クラール、清澄だといっている。これは、動物たちの棲む森と同じ形容であるから、この娘は、どこか、なにかしら、森の動物たちのように、沈黙、静けさ、静寂に関係しているのではないかと考えることができるし、実際に、そうである。とりあえず、まづこの第1連を散文訳すると、

そうして、ほとんど娘といっていいある娘がいたのであり、そして、歌と七弦琴のこのいくばくかの幸せかの中から外へと出てきたのであるが、この娘は、その春のヴェールを通して清らかに光かがやいており、わたしの耳の中で、自分の寝床をしつらえたのである。

ということになるだろう。

リルケというひとは、わたしの悲歌の論の中でも論じたように、言葉を空間と考えているので、いやもっと正確にいうと、言葉の意味するところをひとつの空間と考えているので、耳の中でも、何事でも起こるといった塩梅なのだ。ここでは、多分美しいと思しき女性が、自分のための寝床をこしらえて、寝てしまうのだ。わたしも、こういう語り手になりたい。

ところで、このうらやましい語り手とは、いかなる者であろうか。リルケではなく、オルフェウスではない。リルケの詩の中に登場する、リルケがこのソネットを歌い始めるやすぐ間髪を入れず登場する語り手である。これに名前をつけることがむつかしい。しかし、どの民族のどの言語であっても、この語り手が同じように登場するのは、何故であろうか。

これは、よくよく考えるべきことであると、わたしは思う。

さて、今日は、少しあれこれと書きすぎたようである。このソネット2番の残りは、また明日といたそう。

2009年9月21日月曜日

オルフェウスへのソネット1部の第2連から第4連


2連から第4連を見てみる。最初は1連1回のブログとおもっていたけれども

こうして読み始めると、連と連にわたってひとつの文があるので、なかなか

そうも行かない。これらの連を散文的に分解してしまっては、やはり駄目なのだろうなあ。

むつかしいところです。

Tiere aus Stille drangen aus dem klaren
gelösten Wald von Lager und Genist;
und da ergab sich, daß sie nicht aus List
und nicht aus Angst in sich so leise waren,

最初のTier aus Stilleとは、一体どういう意味なのだろうか。静けさ、静寂の中から生まれた動物たちと読める。そのような動物たちがいるのだと合点する以外にはない。

それとも、生まれたとまでは言わないが、静寂の中にいたのだが、そこから外へと出てきた動物たちという意味もあるから、そうなのか。いづれにせよ、ausという前置詞は、リルケの好きな、favouriteな前置詞。悲歌でもそうだった。内から外へ出ると、苦しいこともあるが、しかし、それはよきことなのだ。

Aus dem klaren geloesten Waldというのがよくわからない。森があって、森である以上は、動物がたくさん棲んでいて、それは当然klar、英語でいうclear、清澄であって、geloest、ゲレスト、動物たちの糞で汚れているという、そういうイメージが最初からあるのだろうか。最初からというのは、森に定冠詞がついているから、そう思ってみたのだが。あるいはリルケのことだから、案外に掛け言葉になっているかも知れない。

前者のklar、クラール、明るい、澄んだ森というのは、森そのものが本来持っているイメージなのだろうか。それとも、この沈黙から生まれでた動物たちが棲むからそうなのだろうか。

後者のgeloest、ゲレスト、糞をされた森というイメージはどうなのだろうか。これは、糞をされた森という解釈で正しいのだろうか。それとも、動詞loesenという意味から、解き放たれた森という解釈が正しいのだろうか。つまり、それまでその森の中にいて、そこから外に出ることを禁じられていたものたちが、そこから外に出るようになった、そのような森という意味。

うーん、どうも、後者の意味の方が、この場合は通るかも知れない。清澄で糞にまみれたというイメージも、個人的にはおもしろいと思うのであるが、どうもそうではないようだ。

こうして考えてくると、リルケの意識の中では、森とは、何か禁忌のある、何かが魔法によってなのか閉じ込められている空間なのだろうか。

そうすると第2連の前半2行は、次のような散文訳になる。

Tiere aus Stille drangen aus dem klaren
gelösten Wald von Lager und Genist;

沈黙の中から生まれてきた動物たちは、清澄な、禁忌を解き放たれた森、

寝床と巣であった森からから外へと切迫したように走り出た。

(続いて来る2行は、)

und da ergab sich, daß sie nicht aus List
und nicht aus Angst in sich so leise waren,

そうすると、そこで、はっきりとしたことは、この動物たちは、

悪い企みや不安なこころから、自分自身の中にそっと静かにしているのではなかったということなのであり、

(という訳になる。続いて、第3連は、)

sondern aus Hören. Brüllen, Schrei, Geröhr
schien klein in ihren Herzen. Und wo eben
kaum eine Hütte war, dies zu empfangen,

(とあり、これを訳すと、)

そうではなく、聞くというこころから、そのように静かであったということなのである。唸ったり、叫んだり、咆哮したりすることは、その動物たちのこころの中では、小さいことに思われた。そうして、これ(このような状態)を受け容れてくれるまさにほとんどひとつの小屋もなかったところに、

(続けて第4連へ、文のつながりのままに訳すと、)

ein Unterschlupf aus dunkelstem Verlangen
mit einem Zugang, dessen Pfosten beben, —
da schufst du ihnen Tempel im Gehör.

暗い欲求から生まれた、隠れ場所、避難場所があったのであり、

この場所には、そこへと至る通路があるのだが、その柱は

激しく震えているのだ――そこで、お前は、動物たちのために

聴覚の中に寺を建立したのだ。

以上が最初のソネットの全体です。第3連にあるGeroehr、ゲレール、ということば、これをわたしは咆哮と、その語感から訳しましたが、これは仮の訳で、辞書には載っていない言葉です。ご存じの方があれば、お教えください。

悲歌の場合には、リルケが動物を持ち出すと、それはいつも人間の限界との関係で、理想の状態を持っている生き物として描かれ、歌われていますが、悲歌をソネットの註釈に使ってみると、ここでもそのような対比が考えられていると解釈することができます。人間の世の、悪いたくらみや奸智、不安ということから、静かにしていたのではない動物たち。

そのような動物たちのために、オルフェウスは、その竪琴と歌声で、聞こえる寺、聴覚の中に寺を建立したのだというのです。この寺はちょっとやそっとでは動かず、壊れない建物と考えるべきなのでしょう。

2009年9月15日火曜日

オルフェウスへのソネット1部のIの1連(3)

1章 

I 第1(2)

昨日今日と移動書斎の中でソネットを読む。今日読んで、印刷した枚数でゆくと25枚目までを読んだ。残りは7,8枚というところ。

読んでみて思うことは、悲歌に対して対照的に、この詩はあるということでした。悲歌の自由律、そうして、特に悲歌1番と2番の高潮した緊張あるのに比べて、ソネットは、その名の通りの形式を踏んだ、脚韻正しい、詩行です。

前者がcontractionというならば、後者はrelaxationということができると思います。リルケは、このようにして、悲歌を書きながら、またこのソネットを書きながら、こうして精神の均衡をとったのだと、わたしは思います。

前者が凝縮、緊張ならば、後者は弛緩、緩癒というのでしょうか。勿論、弛緩とはいうのは、対照、対比のために言ったことで、詩そのものは、詩である以上、またドイツ語の詩作の意味する動詞、dichten、ディヒテンの意味する通り、凝縮しております。読んでいて楽しい。

リルケの思想を、その言葉を、文字を使って、イメージに転化、展開する。読んでいて、悲歌とのつながりも散見されました。

読んでいて何が楽しいか。それは、リルケの詩行の省略を読むことの楽しさだということに気がつきました。その最たるものは、悲歌の中に出てくる天使で、悲歌2番の中で歌われる壮大な天使の帰還のイメージは、ある論理的首尾一貫性を悲歌の1番と2番に読み取らなければ、至らないイメージなのですが、この悲歌2番の天使のイメージを知ることは、リルケの詩行の飛躍を知ること、慣れること、つまりリルケを知ること、リルケの呼吸をつかむこと、なのです。そう、思いました。

さて、ソネットの、あらためて、第1連の第1行をみると、

DA stieg ein Baum. O reine Übersteigung!

とある、O reine Übersteigung!は、今日あらためて思い返すと、なにかあること、ある思想を徹底すること、徹底して行うことというように読むことができました。Rein、純粋なという形容詞で、この踏み越えていくことという名詞を限定したリルケの中には、その形容詞の意味からも、リルケの青春の思想が、昇華をして表現されているのだと思わずにはいられません。わたしは、リルケの個人的な人生については、ほとんど無知でありますけれども。

思えば、わたくしも同じことを、この第1連の2行目がいっていることを、踏み超えて進んできたのではないかと思いました。詩の言葉は、奥の細道。

2009年9月13日日曜日

オルフェウスへのソネット1部のIの1連(2)

1章 

I 第1

DA stieg ein Baum. O reine Übersteigung!
O Orpheus singt! O hoher Baum im Ohr!
Und alles schwieg.Doch selbst in der Verschweigung
ging neuer Anfang, Wink und Wandlung vor.

【散文訳】

ほら、そこに、一本の木がのぼった。ああ、純粋に、限界を超えてどんどんのぼって行くことよ。おや、オルフェウスが歌っているよ。ああ、耳の中に亭々たる木があるよ。そうして、すべてが沈黙していた。しかし、この秘密にされ、隠されている中にあっても、あらたな始まり、すなわち合図と変化が、前進したのだ。

【解釈】

一本の木がのぼる。という文は、隠喩の文である。このことで、リルケは何がいいたかったのか。何を歌っているのか。その次の「純粋に、境界、限界を超えてどんどん上ってゆくこと」とは何をいっているのだろうか。

わたしは、この最初の一行を読んだときに、何故か木が下に下りてゆくと思った。それは多分、悲歌において、リルケの歌う上昇が、下降であると知ったからだと思う。英雄、Held、ヘルト、すなわち神話などの主人公や、若い死者たちに関係したときには、上昇を意味する言葉は、そのひとたちの下降を、無私の生活を意味しているのだったから。

もし、この最初に出てくる木が、何かの話の、それが歴史的事実の主人公であれ、何かのお話の主人公であれ、そのような主人公や死者に関係している木であるならば、その影響を受けていて、上昇が下降であるという解釈が成り立つと思う。

純粋には、悲歌の純粋にと同じ。時間がなく、空間的な表現です。したがい、これは、空間的に、つまり時間無く、木が成長するということをいっているのだと思う。オルフェウスが歌うと、木が成長してゆく。耳の中で。

リルケのrein、ライン、純粋なという形容詞の意味、概念化した意味については、悲歌の次のアドレスでご覧ください。

http://shibunraku.blogspot.com/2009/08/5_14.html

さて、実は、この解釈、考察を書いていて、翻訳に至るので、形式としては、散文訳、解釈の順になっていますが、これは結果で、実は、解釈、散文訳の順番で、ものが出来上がっています。この次第なので、あとで訳を訂正することがあります。私自身、いまこの文を書いていて、このソネットの全体を知りません。自由に書いてみたいとは、このような意味でもあります。

わたしが参照しているテキストには、リルケ自身の註釈がついています。多いものでは全然ありませんが。必要ならば引用したいと思います。

沈黙、音がしない状態とは、リルケの好きな状態です。悲歌でもそうでした。Stille、シュティレ、静寂とうい言葉も、死に関係があるようでした。ここでも、きっとそうなのでしょう。

このソネットの第1連は、わたしには、悲歌1番の最後の連を連想させます。明らかに関係があると思います。悲歌1番の最後の連では、やはり、そのひとの、Linosといいましたか、その死を引き換えに、代償にして、何か荒涼たるものを、音楽が鳴って生き返らせたのではなかったでしょうか。

この詩のあたまには、次のような、これはなんというべきか、詩人が何故この詩を書いたかの理由と、書いた場所と時間が書かれています。

GESCHRIEBEN ALS EIN GRAB-MAL
FÜR WERA OUCKAMA KNOOP

Château de Muzot im Februar 1922

これによれば、リルケは、Wera Ouckama Knoopという女性の墓碑、墓標、墓石として、この詩をかいたということです。この女性の写真を見つけました。次のアドレスへ。

http://picture-poems.com/rilke/wera-ouckama-knoop.html

また、わたしがみつけた、あるウェッブページには、次の説明がのっていました。

Knoop, Wera Ouckama (1902-21), a young dancer, the daughter of a minor novelist, Gerhard Ouckama Knoop (1861-1913). The news of her death at the age of 19 influenced Rilke in the writing of his Sonette an Orpheus. Though he had only a slight acquaintance with her, she became identified in his mind with Eurydice, and the cycle is dedicated as a memorial (Grab-Mal) to her.

http://www.answers.com/topic/wera-ouckama-knoop

この程度のことを念頭において、読むことにしましょう。

やはり、若い死者でした。リルケは、悲歌でそうであったように、若い死者たちに惹かれるのです。

2009年9月11日金曜日

オルフェウスへのソネット1部のIの1連


オルフェウスへのソネットを読んでみようと思います。わたしは、文学史的なことに本当に疎いので、ネット上のWikipediaで読んだ知識でありますが、この詩は、晩年のリルケのふたつの大作のうちのひとつ、すなわち、悲歌に対してあるソネットです。

はや、第1連の最初の4行を読みますと、既に悲歌で見た言葉が出てきます。制作の時期も重なっているようですので、当然のことながら、ひとりの詩人のなかからふたつの詩篇が生まれたわけですから、一方は他方の註釈となることがあると思います。

最初に接したときの接しかたが、わたしは大切な人間で、過去の経験からいつもテキストを読むときは、そうなのですが、虚心坦懐に、徒手空拳で、辞書もひかずに、テキストに当たることにしていますけれども、今回も同じ流儀で、最初の1連の4行のみを、読んだばかりです。

悲歌とは異なり、随分と静かな印象を抱きました。

毎回、1連の4行づつ、といっても1回4行で読みきり、書ききりという具合には、うまくいかないでしょうが、その4行を読んで、感じ、思い、考えたことを、今度は悲歌のようには整理したり整えたりするというのではなく、詩とは何かを考えながら、自由に書いてみたいと思っています。

最初の1連の最初の4行は、次のようなものです。いかがでしょうか。

日本語の翻訳や註釈があれば、それも手元においておきたいと思っています。追々手に入れて紹介したいと思いますが、わたしの訳は、悲歌のときと同様、散文訳となることをご了承ください。これが、わたしの訳しかた、理解の仕方の表現なのです。

1章が26連、第2章が29連、あわせて55連の詩行です。

DA stieg ein Baum. O reine Übersteigung!
O Orpheus singt! O hoher Baum im Ohr!
Und alles schwieg.Doch selbst in der Verschweigung
ging neuer Anfang, Wink und Wandlung vor.

一体、これは、何を言っているのでしょうね。