2009年12月20日日曜日

オルフェウスへのソネット(VII)(第2部)

VII

BLUMEN, ihr schließlich den ordnenden Händen verwandte,
(Händen der Mädchen von einst und jetzt),
die auf dem Gartentisch oft von Kante zu Kante
lagen, ermattet und sanft verletzt,
wartend des Wassers, das sie noch einmal erhole
aus dem begonnenen Tod —, und nun
wieder erhobene zwischen die strömenden Pole
fühlender Finger, die wohlzutun
mehr noch vermögen, als ihr ahntet, ihr leichten,
wenn ihr euch wiederfandet im Krug,
langsam erkühlend und Warmes der Mädchen, wie Beichten,
von euch gebend, wie trübe ermüdende Sünden,
die das Gepflücktsein beging, als Bezug
wieder zu ihnen, die sich euch blühend verbünden.
【散文訳】
花々、お前たち、結局は秩序立てる手の親類であるものよ
(今も昔も変わらぬ娘たちの手)
庭のテーブルの上で、しばしば角から角へと、疲れて、そして柔らかく
横たわっていたものたち
水を待ちながら、水よ、始まった死の中からもう一度花々を生き返らせよ。
そうして、今や、感じる指の、滔々と流れる両極の間へと、再び高められて
入るものたちよ、その指は、
お前たちが自分自身を壺の中で再び発見したときにはいつも、
お前たち軽きものよ、お前たちが予期した以上にもっと恩恵を施こすことができるのだが、
お前たちは、壺の中にいて、ゆっくりと周囲を冷やしているし、そうして、娘たちの暖かさを、懺悔のように、
自分の身から与えているし、それは、曇って疲れさせる数々の罪のように与えているし、その罪は、摘み採られてあるということに関係していていたのであり、それは、咲きほこりながら(自分自身のために)お前たちを結びつける娘たちに対する関係なのだ。

【解釈】
性愛を歌うリルケの詩文の特徴がそうであるように、このソネットでも歌われているのは、冒頭の「花々」と、第2連に出てくる、花々の言い換えである「再び高められて入るものたち」のふたつです。

あとの言葉は、それぞれの名詞に掛かる従属節、従属句で、恰も花弁が重層的に包み包まれてあるように、次から次への従属節、従属句は、そのふたつの言葉を中心にして掛かっているのです。こうして、恰もひとつの花を言葉によって構成しているかのようです。
最初の一行、「花々、お前たち、結局は秩序立てる手の親類であるものよ」を読んで、何故か、リルケは一生を一日で考えたひとだという思いが浮かんだ。人生を一日で考えるとは、一生を一日のこととしてという意味でもあれば、一日の時間の中で人生を知った、その本質を理解したひとという意味でもあるだろう。後者だという思いがする。それは、リルケに固有の、個人的な経験のせいではないかと思う。特に、若さと青春に関する経験の。それは、リルケにとっては、いつも喪われたものだ。そのように思います。その思いが、50を過ぎてもなお、このようなソネットを書かせるのだ。

3連で、娘たちの暖かさが歌われている。娘たちは暖かさを放出する。このリルケの考えは、第1XV1連でも歌われているし、第2XVIII2連でも歌われている。

興味深いことは、この娘たちの暖かさが、懺悔や告解をするように、娘たちが与えていると歌っていることです。それは、懺悔としては、わたしは摘み取られてしまいましたという罪を告白することでしょう。この「摘み採られてある」という罪は、ひとを疲れさせる罪だといっている。

2部ソネットVの第4連で、アネモネの花を歌っている中で、いつ、すべての生活のどの生活において、わたしたちは、ついに、開いており、且つ受け容れるものであるか?と歌われているように、花は結局は開くもの、受け容れるものだということに、この罪は関係しているでしょう。そうであれば、花であるということそのものが、最初からそのようなものであれば、罪のあるものだということになります。しかし、その罪は、娘たちが再び花々を「結びつける」ことがあれば、それによって、浄化されると歌っているのだと思います。この「結びつける」という動詞は、接続法II式、英語の文法でいう非現実話法になっています。つまり、現実にはあり得ないことを、あり得ないこととして歌っている。しかし、それは歌われている以上、現実であり得るという、言葉を超えた言葉の不思議よ。

このソネットもそうですが、ここ少し連続している花についてのソネットでは、明らかに花は女性のことなのですが、男性という性が表には出てきません。このソネットでも、女性である花を、娘たちが救済するソネットになっています。

この娘たちですが、ドイツ語でMädchen、メートヒェンといわれている娘たちの年齢はどれ位かと考えると、十代の女性もメートヒェンであれば、十代未満の子供の娘もメートヒェンということができますから、どうでしょうか、子供である娘ととると合点が行くかも知れません。(その傍証になるかも知れませんが、続くソネットは子供が歌われています。)むしろ性的なものから離れている詩。とはいえ、詩人は充分に性を意識していると思うのですが。第1部ソネットII1連第1行にある「fast noch ein Maedchen」、ほとんどまだ娘である女性、このほとんどまだ娘である女性とは何かですが、この眠れる女性であるような性質と力を、リルケは、このMädchen、メートヒェンという言葉に籠めているのでしょう。この娘たちは、それ自身が花のように「咲き誇」っているという意味で、花に通ずるものがある。

リルケは、このソネットに歌ったことは、基本はすべて過去形を使って歌っているので、過去に起きた事実を歌っているということになる。その過去という時間の中に、現在形や接続法II式が、従属節、従属句の形で接続している、時制、時間という観点から見ると、そのような複雑な文、時間を往来する複雑な文に、このソネットはなっています。それが、このソネットを読むよろこびのひとつなのですが。

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