2010年4月21日水曜日

Goodbye Yellow Brick Road

Hart Craneの論文を読んでいるせいか、Elton Johnのこの歌を思い出す。

そう思って考えてみれば、Brickとは陽物であるからして、Brick Roadとは既に男色の道という意味である。

Hart Craneの詩の中に色の形容詞を探したが、yellowは無かった。この色にElton Johnなどどういう意味を持たせたのか。

Goodbyeも、男色詩人が使うときには意味がありそうだ。Hart Craneもある詩の中でこの言葉を用いている。

Hart Craneを読みながら、このようなことを考えてみよう。

男色詩人の詩の世界は、実にassociation、連想、概念連鎖が豊かです。幾重にも掛けられる意味の世界。何故人間はこういうことに惹かれるのだろうか。

これが宇宙のありかただからだろうな、というのが、このごろのわたしの感想です。

一つの詩文は、そのままで宇宙の構造が現れていると思う。
(どのように?どうやって?なぜ?)

(しかし、このようなことが何故amoralやimmoralなことになるのであろうか。(それは、すべて主体と客体の関係の問題だ。))

インターネットの世界でこの歌の原詞と和訳を見つけたので転載します。
いい歌だと思います。

When are you gonna come down?
When are you going to land?
I should have stayed on the farm,
I should have listened to my old man.

いつになったら離れるつもり?
いつになったら落ち着くんだい?
僕はあのまま農場にいるべきだったんだ
おやじの言うことを聞いとけばよかった

You know you can't hold me forever,
I didn't sign up with you.
I'm not a present for your friends to open,
This boy's too young to be singing the blues.

僕をずっとつなぎ止めておくのは無理な話
契約書にサインしたわけじゃなし
僕は友達のための贈り物じゃあないからね
子供の僕がブルースを歌うのは十年早いな

So Goodbye Yellow Brick Road,
Where the dogs of society howl.
You can't plant me in your penthouse,
I'm going back to my plough.

だから、さよなら黄色いレンガ道
「上流」のやつらが遠吠えする街よ
ペントハウスなぞに根を生やす気はない
僕は僕の大地に戻るんだ

Back to the howling old owl in the woods,
Hunting the horny back toad.
Oh I've finally decided my future lies
Beyond the yellow brick road.

もう一度、森で鳴く、懐かしい梟のもとへ
イボ蛙を捕りに行こう
ああ、やっと決心できた。僕の明日は
黄色いレンガ道の彼方にあるんだ

What do you think you'll do then?
I bet that'll shoot down your plane.
It'll take you a couple of vodka and tonics
To set you on your feet again.

それでこれからどうする気?
君の飛行機は撃ち落とされること請け合い
また元気に立ち直るまでには
ウォッカ・トニックが何杯必要かな?

Maybe you'll get a replacement,
There's plenty like me to be found.
Mongrels, who ain't got a penny
Sniffing for tit-bits like you on the ground.

僕の替りは、そりゃあ、いるかもね
探せば僕みたいのはいっぱいいるだろうし
地べたでくんくん、君みたいなご馳走を
嗅ぎ回ってる一文無しの雑種の犬どもがね

So Goodbye Yellow Brick Road,
Where the dogs of society howl.
You can't plant me in your penthouse,
I'm going back to my plough.

だから、さよなら黄色いレンガ道
「上流」のやつらが遠吠えする街よ
ペントハウスなんかに根を生やす気はない
やるべき仕事に戻るんだ

Back to the howling old owl in the woods,
Hunting the horny back toad.
Oh I've finally decided my future lies
Beyond the yellow brick road.

もう一度、森で鳴く懐かしい梟のもとへ
イボ蛙を捕りに行こう
ああ、やっと決心できた。僕の明日は
黄色いレンガ道の彼方にあるんだ

(http://www.asahi-net.or.jp/~rj5y-okr/zz/worx/yellow.html)

2010年4月16日金曜日

トーマス・マンの闇について


詩の定義(多義性ある一文)と詩の非政治性について、あることから、引き続き自ら問うたこのふたつの関係を考えてみた。

現実の社会は、その権力者は、あるいは政府は(仮に国民国家、近代の国家ー日本も同様ーを考えると)、何かについてのコンテクストをひとつに限定したい、収斂させたいと考え、実行する。それが支配ということだと思う。法律の体系などというのは、その最たるものではないか。それは所有慾を前提にした所有を正当化するための、言語で記述され、ひとつひとつの言葉が定義されたシステムである。

これに対して、あるいは反して、詩は言葉の本来の性質と言語の構造に従うので、ひとつの文からして多義的であることをあたりまえとしている。

ここに詩が、政治と衝突する契機がある。散文家は、ことばを手段として政治的な批判をすることができるが、詩人は、言葉そのものの多義的な構造に忠実ならむとするので、破格文法的な表現であれ、文法的な表現であれ、その詩人のことばが現実に直接触れたときに生まれる表現が詩だという形をとるのではないだろうか。それはどのような詩の姿をとるのであるだろうか。

以前あるブログで言及した同じトーマス・マン論を移動書斎で読んでいるのだが、マンが、第1次世界大戦のときに書いた文章でFeldpost、訳せば戦場通信という文章がある。Feldは英語でfield、postはpostです。

ここで、マンは、戦時下において芸術家の自由とは何か、芸術家の運命とは何かを問うて、その問いに答えて曰く、それはGleichnis(似ていること)、すなわち比喩に生きることだというのがその答えなのだ。一例を挙げようといって、これがそのひとつだと、その語調からいって断定的に(いささか格好良く)、Soldarish zu leben, aber nicht als Soldatと言っている。訳せば、兵士的に(つまり兵士の比喩として)生きること、しかし(実際の)兵士としては生きないこと、だ。

このせりふの前提には、当時ドイツの作家たちが同様の問題を論じたときのテーマがあったようで、それはKunst als Krieg、戦争としての藝術という考え方があるといっている。芸術家が作品をつくることは、実際に血を流す戦争、血を流して戦場で倒れる兵士と同様の、そのような営為なのだという主張である。そのような議論をしたものであろう。

そのことによって、芸術家は戦争に参加するのかしないのか。

マンがいう兵士的に生きるが兵士としてはいきないという文は、いまこの年齢のわたしが読むと、これは明らかに詭弁だと思う。

今日上に置いた写真は、わたしの持っているトーマス・マン短編集に収められている、わたしがよく言及するマン18歳のときの散文の小作品、Visionを本文右側の隣のページにそれを図解したわたしの絵である。よく見えないかも知れない。うまく見えるとよいが。

主人公の周囲は闇である。夜。ある部屋にいて、主人公は椅子に座り机に向かっている。ランプが点いていて、そのランプからの光が円錐形をなしている。主人公は闇の中にいて、闇の中からその明るい円錐形の中を覗き見ている。そこを舞台にして、ふたつのものが過去の記憶の中から姿を現す。ひとつは、聖杯であり、もうひとつは女性の白い手と腕、青い血管が息づいているエロティックな女性の腕です。それが聖杯のそばにある。このような図を写真の中に読むことができるでしょうか。

従いまた、この男は男性としては性的には無能力者だということになります。実際マンの同性愛の傾向は抜きがたい。(同じ典型的な芸術家をわたしはHart Craneというアメリカの詩人にみますが、こちらはもっと現実的に、つまり肉体として男色者でした。)

この円錐形の光の世界でおこることは、闇の中にいる男は制御することができません。ただbegierig(熱心に)見ていることができるだけです。この熱心にというドイツ語に、わたしはマンの性欲、倒錯した性を感じます。単に熱心というだけではない、もっとエロティックな欲情ともいうべき熱情なのです。しかし、その対象、そのエロスを、外にいる男は所有することができないのです。作品、すなわち言語組織体は、そこで自己の意志を以って自己増殖する。マンが繰り返し述べているところです。どの作品もそうやって生まれる。

わたしは、この作品のいわんとしているところ、あらわしているところは、芸術家の、およそ言語にかかわる芸術家、散文家であろうと詩文家、詩人であろうと、そのようなひとの姿を真率にあらわしていると思っております。

このような構造を持った世界を前に、マンはただ倒錯的に、冒頭に述べたような普通の社会価値観からみれば、転倒した価値観をもって、そこにいるのです。マンを詩人に置き換えてみましょう。詩人が詩人であるのは、作品とこのような関係を持ったときだけです。わたしはそう思います。

昼の、明るい、周囲がそのようである場所で、目の前に起こる現実的な事件に対し、その人間はその事件を制御することが同様にできません。できませんが、それを周囲に闇があり、目の前で起きる言葉の自己増殖と同様だと敢て思いなし、そう考えて、現実の事件、すなわちこの場合は戦争も作品だとし、更に作品の比喩だとして考え違いをすると、詩人の言葉は力を喪失します。それどころか上で大人のマンが示しているように、無残なことになる。

上の論文を読んでいると、マンのBBCでのドイツ民族への呼びかけ(形式的には、ドイツ人に対する反戦のスピーチということになるのでしょうが。こうしてみると反戦などとはいい加減な言葉だ。自分は反戦詩人ではないといっている金子光晴の素晴らしさよ。金子光晴は自分をそのようにいう人たちを嗤っている)は、文字にしたそのたのエッセイなどの散文でそうであるように、言葉の意味、すなわち概念を整理しなおすということを、自分が納得するようになるまで繰り返すだけで、実際に現実に働きかけ、何かを動かすことばにはなっていないと論文の筆者は言っています。これはマンについては、第2次世界大戦時の文章も同様だといっています。

このことは、上のVisionの主人公の姿を見れば明らかなのですが、結婚をして(これをマンは, Ich bin verwirklicht、わたしは現実化したといっています。それまでの青年期のマンは、闇の中にいる人間、現実には死んでいる、死者としているような存在と考えているのでしょう)、国民国家の一員でもある生身の人間としては、戦争も不幸にして経験しなければならない、そのときに芸術家としてどうするか。

マンの失敗から受け取るべきわたしたちの教訓は、詩人が政治的なものに触れて言葉を発するときには、くれぐれも比喩を使うことに慎重でなければならないというものです。比喩はまた言語の本質から生まれるものです。(それでは言語とは何かという問いを問うことになりますが、これは詩誌tabに以前書かせていただいたので、ここでは敢て触れません。)

そして、詩人は比喩を使わずに詩を書くことができない。ここに、非常時の場合の陥穽、落とし穴があります。

闇の中にいて詩を書く場合には強みであるものが、昼の明かりの中に自分自身がいて、暗い世界に見る事件について政治的に発言するときには、その言葉が比喩を使うために逆に威力を失うのです。なんという皮肉でありましょう。前者の言葉は、政治力学と全く無縁ですが、後者の言葉は煽動の言葉となるでしょう。

わたしが詩に惹かれるのは、それが前者の言葉だからです。ひとによってみれば倒錯した、価値の転倒が当たり前の、目の前の光ある世界に対しては全くの無能力者の、18歳のマンが書いたVisionの世界のありよう、これが詩の世界の、というよりもまた言葉による表現の世界の何たるかをあらわしているのだと思います。

ある人に問われた問い、何故お前は詩を選んだのかという問いに対する答えは、今回うまくかけている文章だとは思いませんが、このような理由ではないかと思います。

ああ、それからもうひとつ。以上のべきたったことに大いに関係があるのですが、戦争の起源と性愛の起源とは、言語という観点からみると、これらは全く同じものなのです。(また、言語とは何かでありますが。)そうしてみると、詩人の政治や戦争に対する無能力な姿を、また性的にも政治的にも、もし論じるとすると、ここからもっと論を展開することができると思います。

2010年4月15日木曜日

Hart Craneつれづれ草3

今日もYinglingさんの著作を読む。段々と話しが佳境に入って来る。あるいは、男色者の詩の本質的なことに触れ、その詩の解読に向かう。

男色者の詩は、やはり暗号化されているということ、その詩人の任意の(というのは私の言葉)sign、標識が立っていて、それで書かれているということを述べている。これは、Craneの詩の特徴を言い当てている。特徴は本質に至る。

Craneの詩については、

Meaning in Crane is always structural and relational, and finally, even the morphemes "trans" and "sign" in the passage above locate themselves as meaningful only in their relation to other passages of the text.

とあるのは、やはり、我が意を得たりという思いがします。

話しは変わりますが、まだ東京に出てきたばかりのことなので、19か20のことではなかったかと思いますが、今となっては何故そこにいたのかはわからないけれども、夜の8時頃六本木のアマンドの辺りを歩いていて、向こうから来た見知らぬ若い男に郵便局はどこですかと訊かれたことがあります。あるいは、ひょっとしたら、郵便局はまだやっていますかという質問だったかもしれない。何故か、この問いとその場面が長いことこころの中に引っかかっていて、その後も、あれは一体なんだったのだろうと思うこと度々でありました

しかし、あるときHart Craneの詩を読んでいて、その謎が解けたのであります。

Heterosexualの、そういう意味では正常な男性が、女性の秘所を指して、卑俗なアメリカの英語でpackageと呼ぶのをあるエロいビデオで知ったときに、何故To Brooklyn BridgeでCraneはparcelを歌ったのか、

The City's fiery parcels all undone

と歌ったのかを考えていて、その謎が解けたのでした。

このシティは、ニューヨーク・シティ、その金儲けの中心街区、Craneが夜には男色をもひさいだことのある町。その町と、古代の、ユダヤ人の聖書にある避難の町のシティと、ふたつの掛け言葉です。Craneは神聖なものにいつも冒涜の意味を掛け合わせて言葉を使います。それはもう、素晴らしい位に。

後者も罪を赦す町であるように、前者もそうであるという、そのような一行です。

わたしはが見た、そのエロい場面は、撮影者の男がその女に話し掛ける言葉に、お前のpackageは、素晴らしいという言い方があったのですが、これは、packageというのは、この場合明らかに女性の秘所をいう隠語でしたが、これが何故packageなのかがずっと疑問でありましたが、Craneのこの連に来て、そうして、第2連とは同じfloor、同じclass、同じlevelの連だということを念頭に措いて考えると、その謎が解けたのでした。

それは、何故女性の性器がpackageかというと、それは、男が開くものだから、そうして女が両脚を開いて、包まれている中身を見せるものだからです。開梱されるものだからです。

これに対して、parcelは、小包ですが、しかし、男性がそのpenisを男性の肛門に包んでもらうもの、それは女性のようには開かれないで、包まれるものという感覚であり、意味なのだと思います。それが、fiery parcelなのです。火のように痛く激しく感じる肛門性交。このことと、罪と、その浄めの祈りが、ユダヤ教の聖書という古典に分ち難く一体となって、詠われています。

Undoneとは、そのような男色の罪が一切なかったことになるという意味です。

話しが長くなりましたが、何故六本木の夜の路上で男に郵便局の場所を訊かれたのかというと、これが男色者の符牒であったからなのでしょう。そう気がついた次第です。これで、肯定すれば、その男は男色者であるとわかるのです。郵便局、そこは、郵便物、parcelを出して、隠語の世界でのコミュニケーションを図る場所だというこころなのでしょう。

当時は、今のわたしとは異なり、少年にずっと近い美青年でありましたから(と自分でいってはいけないけれども)、そのようなこともままあったように記憶しております。とはいえ、わたくしは今にいたるまで、女性の方がなによりもずっと好きであります。

2010年4月14日水曜日

Hart Craneつれづれ草2

今日も「Hart Crane and the homosexual text New Thresholds, New Anatomies」(Thomas E. Yingling著)を読む。同時にThe Complete Poems of Hart Craneもポケットに忍ばせる。

解ったことと思ったことを今日も書くようにしよう。大したことではないかも知れないけれども、今書かないと二度と書かないかもしれず、忘れてしまうかも知れないから。

解ったことは、この研究論文の著者の副題である、New thresholds, New Anatomiesという言葉は、Hart Craneの最初の詩集「White Buildings」の18番目の詩、The Wine Menagerieという詩の第7連第1行目にある同じ言葉からとったのだということ。

Thresholdという言葉は、The Bridgeという詩集の中の最初の詩、To Brooklyn Bridgeの第8連第3行目にもterrific thresholdとして単数形で出てきます。これは、Craneにとっては概念化した深い意味を持つ言葉のひとつです。

これがどのような概念であるかは、その概念を展開して以前訳したところを見ていただければと思います:http://shibunraku.blogspot.com/2010/03/to-brooklyn-bridge-8.html

Anatomyは、The Broken Towerという詩の中の最後の連にThe matrix of the heartと書いているように、このmatrixという意味です。Craneは、確かにあるmatrixによって詩を書いているのです。男色者として、また自分独自に概念化した言葉を使って。天体のマトリクス、色彩のマトリクス、鉱物のマトリクス、それかた何よりもWhite Buildingsという題名そのものが正直に示している通りの詩作の構造のマトリクス。これについても、上のURLアドレスのページで解説をしておりますので、ご覧下さるとうれしい。

こうしてみると、このYinglingという著者は、同性愛者のこれらの言葉の意味を充分過ぎる位に知っていて副題としたのだと思われる。同性愛者たちの愛の行為のマトリクスを知っているのだ。

ThresholdやAnatomyという言葉のあるThe Wine Menagerieという詩の題名も、wineという言葉、葡萄酒という言葉の裏の意味は、Sunday Morning Applesという詩の解読からいえば、男色者の性行為の移り行く様を春夏秋冬という四季の遷移に比していて、夏の盛りにペニスが熟して実りとなる亀頭(これを林檎、Appleと呼んでいる)から溢れる精子のことを言っているということがわかりましたから、そのことを言っているのですが、menagerieという言葉との組み合わせで、Craneが何を言っているのかは、詩そのものをこれから読む必要があります。ちなみに、menagerieとは、いつもお世話になっているWebster Onlineによれば、次のようなものです。

(上で言ったAppleも暗号になっていて、これは、A People、すなわち男色者達という意味でもあるのでした。Ppleは、Peopleのneumonicー母音を落とした子音の羅列の仕方ーな表現。)

Main Entry: me·nag·er·ie
Pronunciation: \mə-ˈnaj-rē, -ˈna-jə- also -ˈnazh-rē, -ˈna-zhə-\
Function: noun
Etymology: French ménagerie, from Middle French, management of a household or farm, from menage
Date: 1676
1 a : a place where animals are kept and trained especially for exhibition b : a collection of wild or foreign animals kept especially for exhibition
2 : a varied mixture (a menagerie of comedians ― TV Guide)


男色者たちが、男色の行為をするときに、周りで囃し立てているのだということは、Craneの詩から読みとった通りです。それが、for exhibitionという意味だとして、男色者を動物に見立てたのか、いづれにせよ、そのような場所を暗に意味しているのでしょうか。わが筆が先走らぬように、解釈のための推測はここまでとして、後日に解釈を委ねましょう。

もうひとつ、思ったことをしるすことにします。それは、最初に挙げた論文に打たれているページ番号のことです。

奇妙なことに、普通の本ならば、大抵はページの一番下にある番号がいつも、どのページも例外なく一番上に、そして行の真ん中の位置に打たれているのです。これは、意味のあることではないでしょうか。

Pageという言葉は、ページと読めば、その通りの意味ですが、パージュと読めば、お小姓という意味になるからです。Websterからまた引きますと、

Main Entry: 1page
Pronunciation: \ˈpāj\
Function: noun
Etymology: Middle English, from Anglo-French
Date: 14th century
1 a (1) : a youth being trained for the medieval rank of knight and in the personal service of a knight (2) : a youth attendant on a person of rank especially in the medieval period b : a boy serving as an honorary attendant at a formal function (as a wedding)
2 : one employed to deliver messages, assist patrons, serve as a guide, or attend to similar duties
3 : an act or instance of paging (a page came over the loudspeaker) (got a page from the client)

この意味にもあるように、またChaplinesqueを読めば、男色者たちが、聖杯探究の中世の騎士にその身をなぞらえて性愛の行為に耽るということは、その裏の詩から読むことができたのでした。そうして、hostとguestという立場で歓待の限りを尽くす。そこには、お小姓もいたのでしょう。騎士に仕えて、その身の廻りの世話し、絶対的に服従する行為を受け持ったのだと思います。

(こうして今思ってみると、Chaplinesqueの最後の連にあるa grail of laughter、笑いの聖杯という言葉は、実際に性行為をして、性感極まり、wine、即ち精子の酒を注ぐhost役の相手から、口を聖杯に見立ててその歓待を受ける騎士役の受け手のその口のことを言っているのかも知れません。そのような連想が働きます。)

To Brooklyn Bridgeの第2連に、

Some page of figures to be filed away

として、出てきたpageです。

Pageの前にsomeがついているので、これも男色者の少年という意味になります。この解釈については、以前の詩文楽のページをみてください:http://shibunraku.blogspot.com/2010/03/to-brooklyn-bridge-2-version-20.html

これは、いつも若い子が一番上、最高という意味なのでしょうか。

Yinglingという人の言っていることは、極々当たり前のことで、gayの詩、男色者の詩は男色者の詩として読むということなのです。これはその通りですが、それが文学史の上ではどれほど難しかったかを、T.S.Eliotの詩人論、芸術家論(「伝統と個人」)の考えと対比的に、というよりも全くそれを否定する詩のありかたとして、正統的な伝統には連ならない詩のあり方として、Hart Craneを論じているのです。

Hart Craneつれづれ草1

自由が丘の西村文生堂なる古書店に行って、今日、「Hart Crane and the homosexual text New Thresholds, New Anatomies」(Thomas E. Yingling著)というHart Crane論を買うことができた。

書き込みの全くないきれいな古書でした。誠に感謝です。

この著者と通信ができるといいなあと思っていたのですが、事前にインターネットで調べると、既に1992年に亡くなっている。このひとも男色者であって(とはいえ家庭も構えていたことは、この本の序文で知るところですが)、AIDSで亡くなったのだと思われる、そのような書き方をしてありました。

早速読み始めると、やはり、このひとがgayであったごとく、論文中に男色者の隠語が入っておりました。普通のひとは、普通に読めば、なんということもなく読み過ごしてしまう隠語です。

わたしのHart Crane論の読者であるならば直ちにきづくところです。

それは、英語の定冠詞のa、でありました。例えば序文で、次のように使う。

著述に協力してくれた友人たちの名前を挙げ(それも多分男色者なのだと思います)、その名前を主語として、

...must stand in here for a longer list of faculty at the University of Pennsylvania who brought me to some understanding of my own stake inthe critical act. May they accept this book as, in some measure, a return in kind.

この文のsome understandingのsome、in some measureのsomeは、辞書によれば、語源的には、sameと同じ意味で、homosという意味であることから、この友人たちにそっと男色者の隠語を使って、異性性愛者には全く隠して、わからぬようにして、御礼を述べたのでありましょう。

some understandingとは、男色者としての理解、男色者についての理解という意味になるでしょうし、in some measureは、男色者の基準ではという意味を隠しているのです。あるいは男色者の流儀ではという意味になるでしょうか。そのお返しだというのです。

また本文に入って6ページ目に、

It is not, that is, that sexuality in Whitman is not intertexual with (and thus not simply a screen for) these other concerns.

この文のa screenも、定冠詞がついていることから当然としても、screenの裏の意味は、To The Brooklyn Bridgeの第3連にあったthe same screenと同じで、男色者の使用する性具を指しているのです。

また、この文の次の段落の2行目(同じ6ページ)には、

I refer to Whiteman here because his poetry is "frankly and directly sexual" in a way that Crane's more often is not, and therefore the historical critical silence on it is that much more obvious.

とある、この文のin a way。これは上のin some measureと同じ意味です。Chaplinesqueの第4連にも、この同じin a wayが出てきておりました。それは、男色者の流儀で、処刑をする(男色の性愛の行為の絶頂に達して死の状態になること)のは、決して金儲け、金のためではなく、純粋な行為なのだと歌っているところです。

それから、125ページにも次のような文があります。Hart Craneが詩集White BuildingのエピグラムにランボーのEnfanceからの一行を引用していることを指摘している次の文、

The section of "Enfance" Crane quoted is in fact a map of slippages and unsettled identities leading not to some resolution of crisis but dissolving in a forbidding and inhuman wasteland.

ここにある不定冠詞はみな男色者の暗号だと考えることができます。それから、someも。

まだ全体を読んではいませんが、このような男色者の世界の暗号を、この著者は決して表の世界に文字で書き表し、註釈することがないと思います。読めば、解る者には解る、それを楽しめるように書いてあるということなのです。

興味深く思ったことは、この論者が、Hart Craneを論ずるに当たって、まづアメリカ文学の詩の批評の歴史と傾向に触れて、それを批判する形で文章を書き始めていることでした。それは、もちろんアメリカ文学の中で不当に無視されてきた、この男色詩人達の詩のテキストを豊かに読むために必要な批判ではあるのですが。

読み進めながら、思うところ、発見を、Hart Craneつれづれ草としてあらわすことにいたします。