2011年6月25日土曜日

Wie er wolle gekuesset sein(どうやって彼はキスしてもらいたいかということ):第25週

Wie er wolle gekuesset sein(どうやって彼はキスしてもらいたいかということ):第25週

by Paul Fleming (1609 - 1640)


【原文】

Nirgends hin als auf den Mund:
da sinkts in des Herzens Grund;
nicht zu frei, nicht zu gezwungen,
nicht mit gar zu fauler Zungen.
Nicht zu wenig, nicht zu viel:
beides wird sonst Kinderspiel,
Nicht zu laut und nicht zu leise:
bei der Mass’ ist rechte Weise.
Nicht zu nahe, nicht zu weit:
Dies macht Kummer, jenes Leid.
Nicht zu trucken, nicht zu feuchte,
wie Adonis Venus reichte.
Nicht zu harte, nicht zu weich,
bald zugleich, bald nicht zugleich.
Nicht zu langsam, nicht zu schnelle,
nicht ohn’ Unterscheid der Stelle.
Halb gebissen, halb gehaucht,
halb die Lippen eingetaucht.
Nicht ohn’ Unterscheid der Zeiten,
mehr alleine denn bei Leuten.
Kuesse nun ein ledermann,
wie er weiss, will, soll und kan!
Ich nur und die Liebste wissen,
wie wir uns recht sollen kuessen.


【散文訳】

唇以外のどこにもしないでくれ
唇にしてくれたら、こころの底で深く沈むものがある
余り自由過ぎずに、余り強制され過ぎずに
怠惰な舌でふたり一緒にしないで
余り少な過ぎず、余り多過ぎず
そうしないと一緒に子供のお遊びになってしまうから
余り音を立て過ぎずに、余り静か過ぎずに
程よく、正しい方法で
余り近過ぎず、余り離れすぎずに
そうしないと、苦痛だから、悲しみの素(もと)だから
余り乾かし過ぎず、余り湿めらせ過ぎずに
アドニスがヴィーナスにしてあげたように
余り硬くし過ぎず、余り柔らか過ぎずに
ある時には直ぐに、ある時には直ぐにではなく
余りゆっくりし過ぎず、余り早くし過ぎずに
キスするところを区別しないなどということのないように
半分噛んで、半分息をふきかけて
半分両唇を含み入れて
キスする時間を区別しないなどということのないように
ひとのいるそばでよりも、ふたりだけの時に
野暮な男は、知っている通りに、したい通りに
すべき通りに、できる通りに、キスをしたらいいさ
僕と恋人はただ、正しくキスをしなければいけない通りに
本当にキスするだけさ


【解釈】

原文のドイツ語は、普通のフォントと、太文字のボールド体を、4行づつ交互に書き分けて、連を示し、
一連4行、計6連24行の詩を、一行開けをせずに、ひとつの詩篇としてまとめています。

このカレンダーの編者の意図は、この熱き恋人同士のキスを6連にわけずに、ひとつの熱い息遣いとすることにあるのだと思います。

わたしも、最初、6連に分けて転記しようと思いましたが、やはり連に分けると、思いが空白の一行で途絶えてしまうのです。

しかし、それにしても、何と熱いキスの連続でありませう。

こういうことをしてくれる女性がいたら、わたしもよろこんで応じたいと思います。

この詩人は、17世紀の詩人。30歳で亡くなっています。

Wikipediaがあります。こんなひとです。肖像画も残っていて、生まれた町には銅像まで立っている。

こんな詩を書いて、銅像が立つならば、日本の詩人よ、あなたもエロティックな詩を書いてみないか。

日本の詩人よ、もっとエロスに満ちた詩を書いてくれ。

http://de.wikipedia.org/wiki/Paul_Fleming


「こころの底で深く沈むものがある」と訳した2行目は、今の言葉ならば、こころにジーンと来る、ということかも知れません。

この詩に野暮な註釈は不要であろう。

2011年6月18日土曜日

Beschwer ueber den Bart(髭についての苦情):第26週

Beschwer ueber den Bart(髭についての苦情):第26週

by Hans Assmann von Abschatz (1646 - 1699)

【原文】

Was ist bey schoenem Mund
ein starck gewachsner Bart/
Der Liebe Wespen-Nest/ein
Dornstrauch um die Rosen/
Ein Stoppel suesser Frucht/
ein scharffer Distel-Zaun/
Ein Schrancken /welchen wir
den Hafen sperren schaun/
Ein spitzer Schifer-Felss in
stiller Venus-Fahrt? Wer
preist die Kaeste/so die
Stachel-Schale deckt. Die
Perle/welche noch in
rauher Muschel steckt?
Mit was fuer Anmutt ist
dem Barte liebzukosen?


【散文訳】

美しい 唇の周りに
力強く成長した髭とは
何であるか
愛の雀蜂の巣である
バラの周りにある棘ある藪である
甘い果実のなる木の(ごわごわの)切り株である
鋭い棘ある柵である
港を閉鎖する柵である
静かなるヴィーナスの航海に出合う
尖った暗礁であろうか?
だれかが毬栗(いがぐり)を褒めれば
棘ある(果実の)外皮も守ってくれるだろう
ざらざらして毛むくじゃらの貝殻の中にはまだ隠れている
真珠があるではないか?
髭を愛撫するということは、何と優雅なことであろうか


【解釈】

この詩人のWikipediaがあります。

http://de.wikipedia.org/wiki/Hans_A%C3%9Fmann_Freiherr_von_Abschatz

写真がありませんが、多分髭を生やしていたのではないでしょうか。

わたしも髭をはやしてみようか。

2011年6月11日土曜日

Ueber dem Igel(ハリネズミの上を):第25週

Ueber dem Igel(ハリネズミの上を):第25週

by Elisabeth Borchers (1926年生まれ)


【原文】

ueber dem igel
kreiste ein storch
bekomme ich jetzt
einen igel
fragte der igel den igel


【散文訳】

ハリネズミの上を
コウノトリが旋回していた
さてさて、ハリネズミを一匹捕まえたわい
ハリネズミがハリネズミに質問した


【解釈】

この詩は、見かけは単純ですが、中身は複雑な詩です。

この詩は一体何をいっているのか。

上の訳をもっと行間の意味を汲みとって、散文解釈的に訳すと次のようになります。

ハリネズミの上を
コウノトリが旋回していた
さてさて、ハリネズミを一匹捕まえたわい
さてさて、ハリネズミを一匹捕まえたのか?
と、ハリネズミがハリネズミに質問した

それでも、なお解らない。

最後の一行は何をいっているのだ?

最後の一行の最初のハリネズミとは、空を旋回しているコウノトリのことをいっているのではないだろうか。

(つまり、目糞鼻糞を笑うというような意味合いで。)

そうすると、二つ目のハリネズミは、地面にいるハリネズミなのだろうか。

または、最初のハリネズミは、コウノトリの上を更に飛んでいて、コウノトリを狙っている別の鳥のことをいっているのだろうか。

そうだとして、二つ目のハリネズミは、それでは、どういうことになるのだろうか。

しかし、その動物を狙っている動物が、その獲物に質問するということはないだろう。

それとも、話は逆で、最初のハリネズミは、地面にいる本物のハリネズミで、二つ目の目的語のハリネズミが、コウノトリのことを言っているのだろうか。

してみると、この詩を難しくしているのは、やはり、最後の一行だということになる。

ハリネズミがハリネズミに質問したという最後の一行があるので、そこまで読んできて、その直ぐ上にある第2行目、即ち、bekomme ich jetzt einen igel、さてさて、ハリネズミを一匹捕まえたわいという(コウノトリの独白の)平叙文が、さてさて、ハリネズミを一匹捕まえたのか?という(ハリネズミの発する)疑問文に変ずるのだ。

それとも、この最後の一行は、最初のハリネズミも二つ目のハリネズミを、本当のハリネズミであって、第2番目の文の目的語になっている一匹のハリネズミを最初のハリネズミが捕まえたのだろうかと、二つ目のハリネズミに質問している、全然それまでの文脈とは別の文脈が、この最後の文の意味するところなのであろうか。

この詩人のことは、ドイツ語でWikipdiaがあります。

http://de.wikipedia.org/wiki/Elisabeth_Borchers

Googleの画像検索でみると、このような女性です。

http://goo.gl/B6dZF

子供と大人のためのアンソロジーを数多く編纂している詩人です。

この詩も、、確かに、子供にも大人にも、誰が読んでも、ひとつの謎の詩です。

2011年6月4日土曜日

Das Wort(言葉):第24週

Das Wort(言葉):第24週

by Rose Auslaender (1901 - 1988)


【原文】

“Am Anfang
war das Wort
und das Wort
war bei Gott”

Und Gott gab uns
das Wort
und wir wohnen
im Wort

Und das Wort ist
unser Traum
und der Traum ist
unser Leben


【散文訳】
「初めに
言葉ありき
言葉は
神とともにありき」

そして、神はわたしたちに
言葉を与え給い
わたしたちは
言葉の中にすまいしている

そして、言葉は
わたしたちの夢であり
夢は
わたしたちの人生である


【解釈】

この詩人のWikipediaです。

http://de.wikipedia.org/wiki/Rose_Ausl%C3%A4nder


言葉の本当の意味で、パロディーの詩です。

あるいは、引用に変奏を重ねた詩というべきでしょうか。

第1聯の聖書の言葉を踏まえて、第2聯、第3聯も同じ様式で書かれています。

この詩人はユダヤ人なので、ルーマニアのゲットーに収容されましたが、そこでパウル・ツェランと知り合っています。

過酷な時代を生き延びた(本当にこの言葉通りに)詩人です。

その詩人が、このような単純な詩を書くということ、また書けるという、その意義を考えるべきだと思います。

このひとの名前は、Auslaender、アウスレンダー、外国人というのです。

従い、これが本名だとは思われませんが、本名だとしても、誠に詩人の名前だと思います。

詩人は、外に出ることが、その仕事です。外国人になること。

(勿論、その仕事は、詩人だけがしているのではない。誰でもが無意識に毎日行なっていることです。)

一つの詩行を書くということは、その一行の外に出るということです。

しかし、なんといっても、この詩人の幸福は、このような聖書という古代の古典があることです。

わたくしたちにも、日本の古代と古典のあることが、やはり詩を書く上で、幸せなことなのだと思います。