2012年6月9日土曜日

「ハイド氏の庭」を読んで


何かを読むというときの入り口というものが私にはあって、その入り口が今日は見つかったということなのでしょう。

なんと言う事も無く、すっと入って行って、3度読みました。

まづ惹かれたのは、題名です。

庭という空間は、実はこころ密かに詩人という人種がみな例外無く憧れている空間の名前だということに、あなたは気づいていますか?

母屋、家屋、家ではなく、庭、庭園であるということが大切なことなのです。

どんな詩人の詩も、一言で言えば、みな、庭を歌っているのです。

以下、わたしの好きな句を挙げますが、こうしてみるとまた、わたしの好み、句一般に対する好みばかりではなく、言葉による表現に対する好みも明らかになっているように思います。

一言で言えば、目に見えるような形象を備えた句が好きだということです。

また、これは水島さんたちと芭蕉の七部集を読んだ影響もあるなあと、即ち蕉風を思わせる句も、わたしのお気に入りです。まづ、その句から挙げることにします。

塩鮭の胃に溜まりたる暑さかな
四日には鰺の干物を裏返す

また、一寸蕉風からはづれるかも知れませんが、それでも尚、

魚の目の見開ききりて夏料理

という句はいい。

それに、文字通りに墨絵のような静謐なこのような、古典的といっていい世界、

白神をやがて墨絵の驟雨かな

このづれから入って行くのは、わたしの好みの世界ということになるでしょう。

それは、冒頭述べましたように、写実的な、具体的な姿が目に見えるような句が好きだという好みです。以下、続けて列挙しますと、

春は曙血圧計を巻いてをり
雛壇より十二単の糸電話
春の牛として野菜炒め喰らう
永劫に座る男や夏の河
五月には五月の鯨太平洋
黒南風やラベルのずれるビール瓶
紙飛行機ほどの孤独よアキアカネ
白桃と云ふ眼球の爛熟や
芋虫の礼儀正しき咀嚼音
カクテルに秋の地球を絞りけり
感情に古層のありて赤まんま
青年は死と兎とを肩に乗せ
不安とは火星人の冬帽子
菫色のペンギン眠る初明り
万物に臭ひのありて火星かな
少年は顔より孵化を始めけり

それから、ひとの名前が強烈に、その名前そのものの力を借りて詩になっている句。

花闇に江波杏子の儀式かな
昭和の日バカボンは天才だったのか

わたしの好きな不思議の国のアリスの句。やはり、同じように、名前が力を持っている。

野遊のアリスと兎手にナイフ
花曇ハンプティ・ダンプティに黄身ありや

それから、一寸抽象的な言語論理の世界の論理そのものを見事にイメージ、形象に転化させた句。

たんぽぽの絮のすてきな仮定法

また、同様に、言語、言葉の論理の機微に触れた次の句、

小兎を掬う小兎壊れけり

更に、青春や死を思わせる句、

菜の花や明日より近き亡びかな
人界を抜けきれるはず夏燕
飛魚のガラスの鰭や青春や
謝らずどこまでもむく青林檎
青葉騒奥に高校あるらしき
秋うらら棺の釘の素直なり

この流れで、更にブラックユーモアを感じる次の句、

どちらかが死んでいるはず初笑い

最後に、本当は最初に挙げるべき句、

そこまでの岬と知りつつ蝶と行く

この句が最初の作句であるとのこと。

この後の作句がみな、この一句の上に生まれ、成り立っているように思われます。

このような、自分の一生を既にして含んでいる作品、即ち庭という空間を、わたくしもつくりたいものだと切に思いました。

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