2012年11月28日水曜日

【Eichendorfの詩 17-2】Der verliebte Reisende (恋する旅人)


【Eichendorfの詩 17-2】Der verliebte Reisende (恋する旅人) 

【原文】

                       2
Ich geh durch die dunklen Gassen
Und wandre von Haus zu Haus,
Ich kann mich noch immer nicht fassen,
Sieht alles so trübe aus.

Da gehen viel Männer und Frauen,
Die alle so lustig sehn,
Die fahren und lachen und bauen,
Dass mir die Sinne vergehn.

Oft wenn ich bläuliche Streifen
She umber die Daecher fliehn,
Sonnenschein draussen schweifen,
Wolken am Himmel ziehen:

Da treten mitten im Scherze
Die Tränen ins Auge mir,
Denn die mich lieben von Herzen
Sind alle so weit von hier.


【散文訳】

            2

わたしは暗い小路を通って行く
そして家から家へと遍歴する
わたしは、わたしを相変わらず捕まえることができず
すべてはかくも曇って暗く見える。

そこへ、多数の男と女が行くが
皆かくも陽気にものを見
馬車に乗り、そして笑い、そして何かを建てるので
わたしの五感が消えて行く。

しばしば、わたしが青い線が
屋根屋根の上に逃げるのを見るたびに
戸外の太陽の光は漂い
空にある雲は行く

そこへ、冗談のただ中に
涙がわが目に入って来る
何故ならば、涙は心からわたしを愛しており
涙はみなかくもここから遠くにあるからだ。


【解釈と鑑賞】

この詩も不思議な詩です。ドイツ語の文法通りに書かれていますが、アイヒェンドルフの歌うところは、普通に文法通りの意味ではありません。

この詩の歌い手は、家家を訪ねますが、それらの家はいづれも、歌い手の家ではないようです。そうして、その訪ねる道は暗い。何故ならば、歌い手のわたしは自分自身を捕まえていないから、即ち自分自身を知らないからだというのです。これが一連目。

二連目は、対照的に、今度は孤独なひとりの人間から、陽気な多数の男女の登場を迎え、馬車に乗って遠出をしたり、笑ったり、家を建てたりします。これらのことは、詩人とは無縁のことのようです。その様子をみると、詩人の五感は消えて行く。気が遠くなって行くのです。

三連目は、さて、この青い線状のものが何かはわかりませんが、それは文字通りの姿をとるとして、それが家々の屋根の上を逃げて行くのを詩人は見るのです。この青い線が何かは、今は謎です。そうして、戸外の太陽の光は漂い、ということは、何も目的なく、目的を喪って、漂っている。天空の雲も行く。と続く一行は、雲もまた目的を欠いているように見えます。

四連目、最後の連では、こういったことがみな冗談であって、こういう冗談のど真ん中に、涙がわたしにやってくるのです。その理由は、涙というものは、こころからそのようなわたしを愛しているのであり、この場所から遥かに遠いものであるからです。愛してるから遠いのか、遠いから愛しているのか、この何故ならばの後の2行の文のそれぞれ互いの関係は、謎であり、読み手の推量に任されています。

以上が第2番目の詩の内容です。

このように歌うアイヒェンドルフは、全く現代の詩人、21世紀の詩人のようであり、少しも古くなく、18世紀の詩人であるにも拘らず、字tにcontemporaryな詩人であると、わたしは思います。


2012年11月23日金曜日

【西東詩集24】 Fetwa(フェトヴァ)


【西東詩集24】 Fetwa(フェトヴァ)


【原文】

Fetwa

Der Mufti las des Misri Gedichte,
Eins nach dem andern, alle zusammen,
Und wohlbedächtig warf sie in die Flammen,
Das schoengeschriebne Buch es ging zunichte.

Verbrannt sei jeder, sprach der hohe Richter,
Wer spricht und glaubt wie Misri - er allein
Sei ausgenommen von des Feuers Pein:
Denn Allah gab die Gabe jedem Dichter.
Missbraucht er sie im Wandel seiner Sünden,
So seh er zu mit Gott sich abzufinden.

   
【散文訳】


フェトヴァ


ムフティがミスリの詩を読んだ
次々と読み、すべての詩をまとめて読んだ
そして、熟慮しつつ、それらの詩を炎の中に投げ込んだ
美しく書かれてあるその本は、滅んだ。


だれでも追放するぞ、と高位の裁判官は言った
ミスリのように話をし、そして思う者、ー その者のみが
炎の苦しみから、例外である
何故ならば、アラーは才能を、どの詩人にも与えたのであり
詩人が、その罪の彷徨の中に、才能を濫用するならば
詩人は、神とうまく折り合いをつけることに注目し、用心するがよい、と。



【解釈】

題名のFetwaとは、Wikipediaによれば、

ファトワー (Fetwa) とは、ムフティーと呼ばれる、ファトワーを発する権利があると認められたウラマー(イスラム法学者)が、ムスリム(イスラム教徒)の公的あるいは家庭的な法的問題に関する質問に対して、返答として口頭あるいは書面において発したイスラム法学上の勧告のことである。ファトワー自体には法的拘束力はないが、著名なムフティーによるファトワーはファトワー集に編纂され、各イスラム法学派の個別事例に対する見解を示すものとして重視された。

日本語では、ファトワーと呼ばれていますが、ドイツ語の発音をそのまま写して、フェトヴァと記することに致します。

前の同じ題名のファトヴァでは、Anklage(告発)、そして、Der Deutsche dankt(このドイツ人が感謝する)というふたつの詩と併せて、3つひとまとまりの詩の一部を構成していました。

そして、その文脈は、ゲーテの、法律家どもに対する告発の詩でした。その詩で法律と法律家を皮肉り、ハーフィスを置き、ハーフィスを規準にして、世間に真っ向から挑戦をしていました。

ハーフィスの言葉は、前のフェトヴァでは「あちらこちらで、小さな事柄についてもまた言っている法の境界の外側で。」そこにある小さきことについて、完璧なる真理を言っているというのです。そこにこそ、真理があるということが、ゲーテのこころでした。

さて、このふたつめのファトヴァは何を歌っているのでしょうか。

読んでみると、これは前のファトヴァとバランスをとったファトヴァになっていることがわかります。


Muftiとは、イスラム法の権威ある解釈者という意味です。Wikipediaがあります。:http://en.wikipedia.org/wiki/Mufti

Misriとは、わたしの手元にある西東詩集の註釈によれば、エジプトの人で(1617/18 - 1699)、宗教的な結社の創設者であり、政治的に危険な邪説を述べたために罰せられたとあります。

一連目と二連目は何か一見矛盾している連のように見えます。裁判官は、Misriの詩をすべて火にくべてしまうのに、Misriのように考えるものだけが、炎の苦しみから逃れて、例外となるといっています。

裁判官は、Misriの詩を消却することによって、この宗教家の才能の濫費とのバランスをとったということなのでしょう。その書物を焼き、そして、Misriを認めるということによって。

それが、最後の一行の意味なのだと思います。

ここに、かろうじて、ゲーテの自制心が働いています。







第49週: Das lange Gedicht by Harald Hartung (1932 - )




第49週: Das lange Gedicht by Harald Hartung (1932 -  ) 

【原文】

Das lange Gedicht

Die jaehe Kuehle
immitten der Hadesgestalten -
das könnte aus einem Gedicht sein
Blau käme mehrfach drin vor
einmal auch gülden
wüsste man nur was das meint.


【散文訳】

長い詩

急激な寒さが
黄泉の国の姿の真ん中で
それは、一篇の詩の中からでてきたのかも知れない
青が、幾重にも、その中に現れていて
また実際、それは、金だと
それがそうだと言えば、それだけを、ひとは知っているのかも知れない。

【解釈と鑑賞】

この詩人のWikipediaです。

http://de.wikipedia.org/wiki/Harald_Hartung

動詞は総て接続法II式(英語の非現実話法)になっていて、読んでいて、何か儚い、夢幻的な感じがする一方で、しかしやはり現実感のある詩となっています。

結局、この詩は何を歌っているのでしょうか。と、そうまとめてみると。

詩が、寒さ、冥界の真ん中にある寒さを生むということ。あるいは、逆にその寒さから、詩が生まれるということをも感じさせる。

青という色彩と黄金色の色彩とが、これが詩の色だということ。そういう色彩を現出せしめている何ものかが、詩を生むのであり、それをひとは接続法II式(非現実話法)でしか歌うことができないということ。

と、このように考えて来ると、この詩の題名は長い詩というものですが、詩自体は極く短く、しかしその歌うところは、詩の本質を歌っているので、命が長い、どの時代の詩にも通じる詩だという意味になるのでしょうか。




2012年11月21日水曜日

【Eichendorfの詩 17-1】Der verliebte Reisende (恋する旅人)


【Eichendorfの詩 17-1】Der verliebte Reisende (恋する旅人) 

【原文】

                       1
  
Da fahr ich still I'm Wagen,
Du bist so weit von mir,
Wohin er mich mag tragen,
Ich bleibe doch bei dir.

Da fliegen Waelder, Kluefte
Und schöne Täler tief,
Und Lerchen hoch in Lüften,
Also ob dein' Stimme rief.

Die Sonne lustig scheinet
Weit über das Revier,
Ich bin so froh verweinet
Und singe still in mir.

Vom Berge geht's hinunter,
Das Posthorn schallt im Grund,
Mein' Seel wird mir so munter,
Grüß dich aus Herzensgrund.


【散文訳】

            1

こうして、わたしは、静かに馬車に乗って走っているが
お前は、わたしのところから、かくも遠く
馬車はわたしをどこへと運ぶのか
わたしは、お前のもとに留まりたいというのに



森という森も、崖という崖も飛び去り
そして、美しい谷という谷が深く
そして、雲雀たちが高く空を飛ぶ
恰もお前の声の叫ぶように

太陽は陽気に輝き
猟区を遥かに広く亘って
わたしはかくも歓びに泣いている
そして、わたしの中(こころの中)で静かに歌う

山は傾斜になって下り
郵便馬車の角笛は、地底で鳴り響く
わたしの魂は、かくも陽気であり
お前に心の底から挨拶をする。


【解釈と鑑賞】

恋する旅人と題した詩の最初の詩です。

全部で6つの詩からなっています。

これから、この詩がどのように展開するものか、注目しましょう。

陽気なという言葉が、3つ出て来ています。それは、munterとfrohとlustigという言葉です。

明らかにアイヒェンドルフは、このみっつの言葉を使い分けています。

Grimmの辞書をひきますと、munterは、活発に、新鮮になにかをすること、frohは、満足の状態で喜ぶこと、lustigは、欲求があって、何かを求めること、それぞれの意味で、陽気だ、楽しい、愉快だという意味になります。

といっても、訳し分けることはなかなか難しいものがあります。






2012年11月17日土曜日

【西東詩集22】 Der Deutsche Dankt(このドイツ人(ゲーテ)が感謝の意を表する)



【西東詩集22】 Der Deutsche Dankt(このドイツ人(ゲーテ)が感謝の意を表する)


【原文】

Der Deutsche Danke

Heiliger Ebusuud, hasts getroffen!
Solche Heilge wünschet sich der Dichter:
Denn gerade jene Kleinigkeiten
Ausserhalb der Grenze des Gesetzes
Sind das Erbteil wo er, übermütig,
Selbst im Kummer lustig, sich beweget.
Schlangengift und Theriak muss
Ihm das eine wie das andre scheinen,
Töten wird nicht jenes, dies nicht heilen:
Denn das wahre Leben ist des Handelns
Ewge Unschuld, die sich so erweiset
Dass sie niemand schadet als sich selber.
Und so kann der alte Dichter hoffen
Dass die Huris ihn im Paradiese
Als verklärten Jüngling wohl empfangen.
Heiliger Ebusuud, haste getroffen!

   
【散文訳】

このドイツ人(ゲーテ)が感謝の意を表する

神聖なるエブスードよ、お前はそれを成し遂げたのだ!
そのような聖なる人々になりたいと、詩人という者は自らに願っているのだ
何故ならば、丁度あのような(ハーフィスが歌ったような)たくさんの小さなことは
法律の境界の外にあって
遺産なのであり、そこでは、詩人は、高慢にも
苦悶の中にあってさへも陽気で、動くものだからだ。

蛇の毒とテリアク(ヨーロッパ中世の解毒練り薬)は
詩人の前に、あれやこれやと姿を変えて現れるに違いなく
ひとを殺すことは、あのこと、このことを治癒させることはない。
何故ならば、真実の人生とは、行為の永遠の無罪、無実なのであり、その無罪潔白が示すところによれば、それは
無罪潔白とは、自分自身以外の誰をも傷つけることがないからだ。
そして、このように、年老いた詩人が願うのは
永遠の処女が詩人を天国で、光輝き変容した若者として迎え入れることである。
聖なるエブスードよ、お前はそれを成し遂げたのだ!


【解釈】

わたしの読んでいる西東詩集の註釈によれば、この詩と、前のAnklage(告発)、そして、Der Deutsche dankt(このドイツ人が感謝する)という3つの詩は、ひとまとまりの3連作だと言っています。そのつもりで、この詩を読むことにしましょう。

前の詩は、ゲーテの、法律家どもに対する告発の詩でした。その詩で法律と法律家を皮肉り、世間に真っ向から挑戦をしていました。

お前達が正しいのではない、コーランの教えを血肉にして自由闊達な歌を歌う詩人、ハーフィスこそ、そうしてその遺髪をドイツにおいて継ぐ、このわたしこそ正しい者だというゲーテの声が聞こえて来ます。

さて、その次の詩では、ゲーテ自身がエブスードという名前の詩人に我が身を擬して、ハーフィスのようなレベルの詩作をすることを神に祈って、詩作をすることの罪のすべての赦しを乞うておりました。

さて、今回はこの3つ目の詩の最後です。

聖なるエブスードとは、ハーフィスの別称です。前回考察したようにエブスードとは、どうも無名の人の別称であるようです。

それが、聖なるハーフィスだということには、人生の深い意義と意味が隠れています。ゲーテはそのことを歌っている。そうして、無名の人間が法律の外にいて、如何に生き生きと生きているかを。

そのような詩人の姿を、この詩で、またこれら3つの詩で造形しているということになります。本当に法律よ糞喰らえ。

蛇の毒とテリアク(ヨーロッパ中世の解毒練り薬)の譬喩(ひゆ)は、前のフェトヴァという詩にも出て来て、これはゲーテのお気に入りの一句だと思われます。あるいは、出典がどこかにあるのでしょう。

蛇の毒とテリアクは、確かにわたしたちの生活の中にいつも繰り返し姿を変え、手を変え品を変えて現れます。蛇の毒を飲んではなりません。

そうして、詩人は言葉で歌を歌います。しかし、詩人の無罪無実はだれも人を傷つけません。しかし、法律は人を処刑し、死刑にする。

この強烈な対比で、詩人の詩がどれほどのものか、どれほど詩人の言葉は人を殺さないかを言い表しています。そして、それによって、天国の処女に光り輝く者として迎えられる。

聖なるエブスードよ、聖なる無名者よ、お前はそれを成し遂げたのだ!という最初と最後の一行には、ゲーテの、このドイツ人の万感の思いが籠められています。






第48週: Hiddensee im Dezember by Jan Wagner (1971 - )




第48週: Hiddensee im Dezember by Jan Wagner (1971 -  ) 

【原文】

Hiddensee im Dezember

alles hat zu tun mit dem wind: die schiefen
graeser an den duenen, die reetgedeckten
häuser, an den westen gelehnt, und diese
wolkenstampede

flach ueber den wiesen, der leuchtturm, wo das
land im Meer verschwindet: am Abend streicht sein
weisser pinsel ueber die waende, malt das
dunkel noch dunkler.

winter, der den Bodden mit eis versiegelt.
Nebel, seine flotte - verfolgt von Möwen.
hinterm deich nur schwenkt noch der Sandkorn seine
schmugglerlaterne.


【散文訳】

12月のヒデンゼーの砂州

すべては風と関係している。即ち、傾(かし)いだ
砂丘に接してある草々、藁屋根の家々、西に寄り掛かって、そしてこれらの
雲の雪崩

草原は平たく、灯台があって、そこは
海の中に土地が消えている場所。夜には、灯台の
白い絵筆(ピンゼル)が壁の上に筆を走らせ、
暗闇をもっと暗く描くのだ。

冬、それはボデンの入り江を氷で封印する。
霧、その艦隊は、鴎に追われて
堤防の後ろにはグミ(砂地の灌木)がただ揺れている、その
密輸者のランタンが。


【解釈と鑑賞】

Hiddensee、ヒデンゼーとは、Ruegen島、リューゲン島にある砂州のことです。

この砂州の景色を目にして、その光景を歌っています。

Wikipediaがあります。これをみると、ドイツの一番北の海に面した土地です。

http://en.wikipedia.org/wiki/Hiddensee


この砂州のを幾つか掲載します。





これらの景色が冬になると次の様に変化します。





そして、藁屋根の家と訳した家は、実際には次の様な家です。


素材が藁のように見えますが、実際には何と言う植物なのか、お解りの方がいたらお教え下さい。

冬になると、次の様に雪の屋根になります。


また、Boddenm、ボデンという名前の入り江の地図と写真です。




そして、冬の灯台


最後の一行にある「密輸者のランタン」とそのまま訳したところは、その灌木の何かなのだと思います。季節が冬ですので、花ではなかろうと思います。これも、ご存知の方はお教え下さい。

この詩を読みながら、わが故郷釧路の冬を想い出しました。霧を除けば、景色の風情といい、灯台といい、よく似ているのです。


2012年11月10日土曜日

【Eichendorfの詩 16】Dyrander mit der Komoediantenbande (喜劇役者一座を引き連れたドリアンダー)


【Eichendorfの詩 16】Dyrander mit der Komoediantenbande (喜劇役者一座を引き連れたドリアンダー) 

【原文】

Dyrander mit der Komoediantenbande 
  
Mich brennt's an meinen Reiseschuhn,
Fort mit der Zeit zu schreiten -
Was wollen wir agieren nun
Vor so viel klugen Leuten?

Es hebt das Dach sich von dem Haus
Und die Kulissen ruehren
Und Strecken sich zum Himmel 'raus,
Strom, Waelder musizieren!

Und aus den Wolken langt es sacht,
Stellt alles durcheinander,
Wie sich's kein Autor hat gedacht:
Volk, Fürsten und Dryander.

Da gehen die einen müde fort,
Die andern nahn behände,
Das alte Stueck, man spielt's so fort
Und kriegt es nie zu Ende.

Und keiner kennt den letzten Akt
Von allen, die da spielen,
Nur der da droben schlaegt den Takt,
Weiss, wo das hin will zielen.


【散文訳】

喜劇役者一座を引き連れたドリアンダー

わたしの旅の靴に火が着くのだ
時間とともに勢い良く行進することを思えば
さて、わたしたちは何を演じたらよいのだ
かくも聡明なる人々を前にして?

弦楽器の響板(屋根)が家の上に出ていて
そして、舞台の書き割りは楽器を奏で
そして、天に延びている
河、森という森が音楽を奏でている!

そして、それが、雲の中から、優しく手を伸ばし
何もかも混乱させる
どんな劇作者も考えなかったように、即ち
民衆も、君主も、そしてドリアンダーも。

すると、ある者たちは疲れて行ってしまい
他の者たちは敏捷に近づき
古い台本、それをかくもどんどんと演じて行き
そして、終わることが決してない。

そして、だれも最後の幕を知らず
そこでそうやって演じている者たち全てのうち
ただ、あの上の方で拍子を打っている者だけが
どこにそれが向かおうとしているのかを知っている。


【解釈と鑑賞】

ドリアンダーとは、人の名前のようですが、これが一体如何なる人物なのか不明です。

この詩の中から推測する以外にはありません。

ドリアンだーは、喜劇役者の一座を引き連れていて、旅廻りの劇を見せて歩く。

そうして、その行く所、いつも楽の音が鳴っている。自然が音楽を奏でている。ここは全くアイヒェンドルフの世界であり、舞台です。

この世界は、どうも旅役者の演ずる舞台なのであり、だれもその台本の終わりを知らない。あの高いところで拍子を打っている者だけが、その向かう方向を知っている。

そのような、一寸大仰な言い方をすれば、世界認識が、このアイヒェンドルフの詩だということになります。






【西東詩集21】 Fetwa(ファトヴァ)



【西東詩集21】 Fetwa(フェトヴァ)


【原文】

Fetwa

Haffs' Dichterzüge sie bezeichnen
Ausgemachte Wahrheit unasuloeschlich;
Aber hie und da auch Kleinigkeiten
Ausserhalb der Grenze des Gesetzes.
Willst du sicher gehen, so musst du wissen
Schlangengift und Theriak zu sondern -
Doch der reinen Wollust edler Handlung
Sich mit frohem Mut zu überlassen,
Und vor solcher der nur ewge Pein folgt
Mit besonnenem Sinn sich zu verwahren,
Ist gewiss das Beste um nicht zu fehlen.
Diese schrieb der arme Ebusuud,
Gott verzeih ihm eine Sünden alle.

   
【散文訳】

フェトヴァ

ハーフィスの詩人の筆は、それを言い表している
即ち、完全な真理を、消し難きほどに
しかし、あちらこちらで、小さな事柄についてもまた言っている
法の境界の外側で。
お前が確実に歩みたいと思うならば、お前が知らなければならないのは
蛇の毒とテリアク(ヨーロッパ中世の解毒練り薬)を分けることだ
しかし、それだけではなく、高貴な振る舞いの純粋な欲望に
敬虔なる勇気を以て身を捧げることであり、
そして、ただ永遠の苦悶のみを追いかけるそのような女性から
思慮深いこころを以て身守ることであり
間違いなく、最善のことは、欠けることなきようにとあることである。
このことを、哀れなるエブスードが書いた
神よこの者の罪をすべて赦し給え



【解釈】

わたしの読んでいる西東詩集の註釈によれば、この詩と、前のAnklage(告発)、そして、Der Deutsche dankt(このドイツ人が感謝する)という3つの詩は、ひとまとまりの3連作だと言っています。そのつもりで、この詩を読むことにしましょう。

前の詩は、ゲーテの、法律家どもに対する告発の詩でした。その詩で法律と法律家を皮肉り、世間に真っ向から挑戦をしていました。

しかし、お前達が正しいのではない、コーランの教えを血肉にして自由闊達な歌を歌う詩人、ハーフィスこそ、そうしてその遺髪をドイツにおいて継ぐ、このわたしこそ正しい者だというゲーテの声が聞こえて来ます。

さて、この詩では、ゲーテは何を歌っているのでしょうか。

Wikipediaに、この詩の題であるFetwaについての説明がありましたので、それをひくことにします。

http://ja.wikipedia.org/wiki/ファトワー

題名のFetwaとは、Wikipediaによれば、

ファトワー (Fetwa) とは、ムフティーと呼ばれる、ファトワーを発する権利があると認められたウラマー(イスラム法学者)が、ムスリム(イスラム教徒)の公的あるいは家庭的な法的問題に関する質問に対して、返答として口頭あるいは書面において発したイスラム法学上の勧告のことである。ファトワー自体には法的拘束力はないが、著名なムフティーによるファトワーはファトワー集に編纂され、各イスラム法学派の個別事例に対する見解を示すものとして重視された。

日本語では、ファトワーと呼ばれていますが、ドイツ語の発音をそのまま写して、フェトヴァと記することに致します。

ハーフィスの言葉が「あちらこちらで、小さな事柄についてもまた言っている法の境界の外側で。」というところが眼目です。ハーフィスの言葉は、法律の外側にも、そこにある小さきことについても、完璧なる真理を言っているというのです。

このゲーテの言葉に、わたしたちは傾聴することに致しましょう。

「間違いなく、最善のことは、欠けることなきようにとあることである。
このことを、哀れなるエブスードが書いた
神よこの者の罪をすべて赦し給え」

最善のことが、欠けることない状態であること、このことをエブスードが書いたということ。このエブスードはアラビアの人の名前ですが、この名前を聞いて、太郎とか花子とかいうように、アラビア人には通用する表象があるのだと思います。

それは、日本語の世界ならば、どうも一介の何の何兵衛、何の何太郎という名前のようです。

このエブスードとは、ゲーテ自身のことだと思われます。

そうして、神にその罪のすべての赦しを乞うております。


第47週: Der Winter by Muhammad al-Ghuzzi (1949 - )




第47週: Der Winter by Muhammad al-Ghuzzi (1949 -  ) 

【原文】

Der Winter

Nachts, wenn Winter ist,
Kehrt die Schwester in unser Heim zurück
Und flicht die Nacht ihrer Zoephfe,
Ziert sie mit der Brosche ihres Silbers
Und kehrt dann zum Abhang am Flussbett zurück

Nachts, wenn Winter ist,
Kehrt die Schwester in unser Heim zurück,
Sieht, dass die Nachbarstochter Brüste bekommen hat,
Dass die Kinder herangewachsen sind
Und dass wir unseren ersten Hof verlassen haben.

Nachts, wenn Winter ist,
Kehrt die Schwester in unser Heim zurück
Bettet mich auf das Wasser ihrer Flechten,
Und sobald der Hahn schreit,
Wachsen ihr Flügel,
Und sie kehrt mit feuchten Augen ins Totenreich zurück,
Nachts, wenn Winter ist ...


【散文訳】


夜に、そうして冬であれば
姉妹たちは、わたしたちの故郷に戻って来て
そして、その髪の房の夜を編み
その銀のブローチで、その夜を飾り
そして、それが終わると、川床にある傾斜へと帰って行く

夜に、そうして冬であれば
姉妹達は、わたしたちの故郷に帰って来て
隣人の娘が、胸のふくらんだことを知り
子供達が大きくなったのを知り
そして、わたしたちが、わたしたちの最初の庭を立ち去ったことを知る

夜に、そうして冬であれば
姉妹達は、わたしたちの故郷に帰って来て
わたしに、お下げ髪の水に寝かしつけ
そして、雄鶏が啼(な)くや否や
その翼が成長し
そして、姉妹達は、濡れた眼をして、死者の王国の中へと帰って行く
夜に、そうして冬であれば …


【解釈と鑑賞】

今週は、アラビア世界の現代詩人です。

どうもインターネットには、残念ながら、この詩人のことを書いたサイトがありません。

作中に歌われている庭という場所には、何か深い意味があるものと思います。この詩人の他の詩を読むと、もっとよく解る事でしょう。

夜、冬、死者の国、その国から冬の夜にやって来て、この世で見るものを見て、また死者の国へ帰って行く姉妹達。

その髪の房の夜を編み
その銀のブローチで、その夜を飾り

とあるところを読むと、この姉妹達は、夜の化身であり、夜の化身の姉妹であるようです。

この詩がアラビアの詩人であるということから、アラビアの詩の伝統の中に、何かを担っている詩であることは間違いがありません。

確かに、アラビアの、ペルシャの詩という感じがします。

わたしたちは、このイスラムの言語圏の詩をもっと読むべきではないでしょうか。深く、今の日本の詩の忘れた宝が埋蔵されているように思います。それは、他方、ゲーテの西東詩集を読みながら思うことでもあるのですけれども。



2012年11月8日木曜日

鼻セレブ



今日「鼻セレブ」という名前の入ったティッシュ―ペーパーを見た。

駅前でよく配布されているあの手の、小さな鼻かみです。

透明な小さな袋の取り出し口の面に、白アザラシの顔をあしらって、その黒い鼻の上に「鼻セレブ」と書いてあったのです。

この鼻とセレブ(celebrity)という言葉の組み合わせが絶妙だと思いました。

この鼻かみで鼻をかむと、あなたもセレブですよという意味でもあり、またこの紙で鼻をかむと、あなたの鼻だけはセレブになりますよ(その他の体の部分はセレブではないけれど)、せめて鼻だけでもセレブになりましょうという意味でもあり、言葉遊びで面白いと思いました。


2012年11月7日水曜日

【Eichendorfの詩 15】Vor der Stadt (町の外で) 【原文】 Vor der Stadt Zwei Musikanten ziehen daher Vom Wald aus weiter Ferne, Der eine ist verliebt gar sehr, Der andre waer es gerne. Die stehn allhier im kalten Wind Und singen schön und geigen: Ob nicht ein Süßverträumtes Kind Am Fenster sich wollt zeigen? 【散文訳】 町の外で ふたりの音楽家が、こちらへとやって来る ずっと遠いところから外へ、森の中から ひとりは非常に惚れ込むほどに熱中していて もうひとりはそうだといってよいだろう。 ふたりは、全くここ、冷たい風の中に立って そして、美しく歌を歌い、ヴァイオンを演奏する、つまり、 甘く夢見られた子供は 窓辺にわざわざ姿を現そうとしないのであろうか? 【解釈と鑑賞】 これは、実に短い詩ですが、一体何を言っているのでしょうか。 登場人物は、いつものアイヒェンドルフらしく、音楽家です。 そのふたりが森の中から出て来るというのも、アイヒェンドルフ好みです。 第1連の最後の2行は、その様子が何故そうなのかの言葉がないので、不明なところがありますが、しかし、演奏することに惚れていると理解することにしましょう。 外気が寒くて風が吹いていても、それに負けずに、美しい演奏をし、歌を歌うというのは、これまでのアイヒェンドルフの詩でもおなじみの光景であり、モチーフです。 そうすると、この詩の眼目は、第2連の最後の2行だということになるでしょう。 歌を歌い、ヴァイオリンを奏でるのは、甘く夢見られた子供が窓辺に須川を現すがためであるのです。 窓辺というのは、アイヒェンドルフの詩では、いつも何か美女が姿を現しているか、この世にはない美しさのある、或は居る場所です。 この場合には、子供であるというところが、いつもと違っています。しかし、それは、甘く夢見られた子供であって、現実の子供ではない。 この子供が何なのか、これから後の詩を読みながら考えて参りたいと思います。


【Eichendorfの詩 15】Vor der Stadt (町の外で) 


 
【原文】

Vor der Stadt
   
Zwei Musikanten ziehen daher
Vom Wald aus weiter Ferne,
Der eine ist verliebt gar sehr,
Der andre waer es gerne.

Die stehn allhier im kalten Wind
Und singen schön und geigen:
Ob nicht ein Süßverträumtes Kind
Am Fenster sich wollt zeigen?

【散文訳】

町の外で

ふたりの音楽家が、こちらへとやって来る
ずっと遠いところから外へ、森の中から
ひとりは非常に惚れ込むほどに熱中していて
もうひとりはそうだといってよいだろう。

ふたりは、全くここ、冷たい風の中に立って
そして、美しく歌を歌い、ヴァイオンを演奏する、つまり、
甘く夢見られた子供は
窓辺にわざわざ姿を現そうとしないのであろうか?


【解釈と鑑賞】

これは、実に短い詩ですが、一体何を言っているのでしょうか。

登場人物は、いつものアイヒェンドルフらしく、音楽家です。

そのふたりが森の中から出て来るというのも、アイヒェンドルフ好みです。

第1連の最後の2行は、その様子が何故そうなのかの言葉がないので、不明なところがありますが、しかし、演奏することに惚れていると理解することにしましょう。

外気が寒くて風が吹いていても、それに負けずに、美しい演奏をし、歌を歌うというのは、これまでのアイヒェンドルフの詩でもおなじみの光景であり、モチーフです。

そうすると、この詩の眼目は、第2連の最後の2行だということになるでしょう。

歌を歌い、ヴァイオリンを奏でるのは、甘く夢見られた子供が窓辺に姿を現すがためであるのです。

窓辺というのは、アイヒェンドルフの詩では、いつも何か美女が姿を現しているか、この世にはない美しさのある、或は居る場所です。

この場合には、子供であるというところが、いつもと違っています。しかし、それは、甘く夢見られた子供であって、現実の子供ではない。

この子供が何なのか、これから後の詩を読みながら考えて参りたいと思います。



2012年11月3日土曜日

【西東詩集20】 Ankalge(告発)



【西東詩集20】 Ankalge(告発)


【原文】

Anklage

Wisst ihr denn auf wen die Teufel lauern,
In der Wüste, zwischen Fels und Mauern?
Und, wie sie den Augenblick erpassen,
Nach der Hölle sie entführend fassen?
Lügner sind es und der Bösewicht.

Der Poete warum scheut er nicht
Sich mit solchen Leuten einzulassen!

Weiss denn der mit wem er geht und wandelt,
Er, der immer nur im Wahnsinn handelt?
Grenzenlos, von eigensinngem Lieben
Wird er in die Oede fortgetrieben,
Seiner Klagen Reim', in Sand geschrieben,
Sind vom Winde gleich verjagt;
Er versteht nicht was er sagt,
Was er sagt wird er nicht halten.

Doch sein Lied man lässt es immer walten,
Da es doch dem Koran widerspricht.
Lehret nun, ihr des Gesetzes Kenner,
Weisheit-fromme, hochgelahrte Maenner,
Treuer Mosleminen feste Pflicht.

Hafis insbesondre schaffet Aergernisse,
Mirza sprengt den Geist ins Ungewisse,
Saget was man tun und lassen müsse?

   
【散文訳】

告発

お前達は、一体全体、誰に対して悪魔達が待ち伏せているかを知っているのか
荒野の中、岩と壁の間で?
そして、どのように奴らがその一瞬を待ち構えて捕まえるかを
地獄へと、奴らが捕まえて誘拐するかを?
嘘つきどもがいるのだ、そして、悪人どもが。

詩人は、何故厭わないことがあろうか
そのような人間達と陰謀を企てることを!

お前達は、一体全体、そいつが誰と一緒に行き、彷徨(さまよ(うのかを知っているのか
そいつ、そのいつも狂気の中で振る舞う奴が?
際限なく、利己的な愛情によって
荒野の中に追い立てられ
その嘆きの韻律が砂の中に書かれ
風によってただちに追い払われている
奴は自分の言っていることを理解せず
自分の言っていることを守ろうともしない。

しかし、世間は、そいつの歌をいつも意のままに広め
見ろ、勿論コーランに反しているというのに
さあ、そうしてみれば、教えてみよ、お前達法律の玄人達よ
智慧を備えて敬虔なる、知識高き男達よ
忠実なるモスリムの堅き義務を

ハーフィスはとりわけ怒りを創造するのだろうか
ペルシャの王子は、精神を不確かなものの中へと爆発させるのだろうか
何をなし、何をなさねばならぬかを言うものだろうか?


【解釈】

前の、この巻の最初の詩では、ハーフィスと全く自分は同じだと歌ったゲーテは、このふたつめの詩では何を歌っているのでしょうか。

わたしの読んでいる詩集の註釈によれば、この詩と、次のFetwa、そして、Der Deutsche danktという3つの詩は、ひとまとまりの3連作だと言っています。そのつもりで、次の2作を読むことにしましょう。

第3連の王子とは、ハーフィスの言い換えです。このMirzaというペルシャ起源の血統の皇統については、次のWikipediaがあります。

http://en.wikipedia.org/wiki/Mirza

最後の連の疑問文は、反語の疑問文で、そんなことは、詩人の仕事ではない、知った事かという意味です。

告発という法律用語を使って歌っていますので、ゲーテはこの詩で法律と法律家を皮肉り、世間にあ真っ向からa挑戦をしています。

しかし、お前達が正しいのではない、コーランの教えを血肉にして自由闊達な歌を歌う詩人、ハーフィスこそ、そうしてその遺髪をドイツにおいて継ぐ、このわたしこそ正しい者だというゲーテの声が聞こえて来ます。

これは、ゲーテの告発の詩です。




第46週: Kannibale by Leon Laleau (1892 - 1979 )




第46週: Kannibale by Leon Laleau (1892 - 1979 ) 

【原文】

Der wilde Wunsch, zu gewissen Stunden
In die zuckenden Gesten der Liebe
Blut zu mischen und wunden
Und wahrzunehmen im Taumel der Bisse,
Die Dauer verleihn dem Geschmack der Kuesse,
Das Roecheln der Liebsten, die Seufzer, die Qualen.
Ach diese ungestllten Triebe
Meiner Ahnen, der Kannibalen.


【散文訳】

カリブ人

野生の願い、即ち、ある時間に
愛の、戦(おのの)きの身振りの中に
血を混ぜ、そして傷つけて血を流す事
そして、咬み傷の陶酔の中に知覚するということ
持続が、口づけの味に
最も愛する者達の喘ぎの声、溜め息、苦しみを与える。
ああ、これらの鎮静されない衝動
わたしの祖先達の、ハイチ人の


【解釈と鑑賞】

Leon Laleauは、ハイチの詩人です。

原文はフランス語で書かれています。この詩人のWikipediaです。


ハイチの作家、政治家、外交官とあります。



この詩は、ハイチの島の住人の、詩人自身の中にある伝統的な気質を歌ったものでしょう。どうにも抗い難い気質を。

これと同じことは、日本人の中にも、きっと、あることでしょう。

そうして、あなたの中にも。

それは、どのような気質、気性なのでしょうか。

追記:
傷つけて血を流す事と訳した動詞、wundenは、本来名詞のWundeしかなく、動詞はないのですが、この詩では、これを動詞に使っていますので、同族目的語のBlut、血と合わせて、そのように訳しました。