2015年5月18日月曜日

リルケの『形象詩集』を読む(連載第1回)


 リルケの『形象詩集』を読む
        (連載第1回)


お前の美をいつも放棄し、犠牲にせよ
計算も議論もすることなく。
お前は沈黙する。美はお前のために、こう言うのだ:わたしは存在する。
そして、美は、千倍の意義を以って、やって来る
遂に、一人ひとりの人間を超えて、やって来るのだ。

[『形象詩集』第2巻第2章の最初に置かれた『飾り文字』と題する詩]


安部公房の世界をより良くより深く知るために、リルケの『形象詩集』を読んでみましょう。

そうして、この連載を始める目的の一つは、安部公房の読者であるあなたに、詩というものは一体何なのか、詩という形式を用いて詩人である人間は一体何をどのように歌うものなのかを知ってもらい、理解してもらいたいと思うからです。それが、生涯詩人であった安部公房をより深く理解することになるからです。

リルケの詩を理解し、安部公房の詩を理解すれば、あなたは安部公房の小説を別の視点から読むことができ、何故あなたが安部公房の言葉にそんなに惹かれるのかが判るでしょう。そうして、自分がどういう人生を求めているのかということも、また。

また、あなたは、これからこの詩集を読んでゆくにつれて、安部公房の小説や戯曲にある形象(イメージ)や動機(モチーフ)が幾つも幾つも出てくることに、きっと驚くことでしょう。

安部公房という言語藝術家は、これからあなたが知ることになる形象や動機を、作品のコンテクスト(文脈)を変えて、即ち視点を変えて、一生涯変奏し続けた作家なのです。

安部公房の自筆年譜によれば、昭和18年(西暦1943年)に「ただリルケの『形象詩集に耽溺した』」とあり、昭和22年(1947年)の項には「手垢にまみれたリルケの『形象詩集』がついてまわっていた。いつの間にか、リルケ調の詩を書きはじめていた。それは詩というよりも、”物”と”実存”に関する対話のようなものだった。」とあります(全集第12巻、465~466ページ)。

昭和18年は、安部公房19歳、昭和22年は、安部公房23歳。この5年間、安部公房はリルケの『形象詩集』を読み耽ったことになります。

そうして、『無名詩集』を刊行するのが、1947年、同じ昭和22年、安部公房23歳の時です。『無名詩集』の刊行は、1946年に満洲から引き揚げて来て、日本に帰国した翌年のことです。

つまり、安部公房は、成城高校時代の多感な19歳から、大陸で敗戦を経験し、満洲から日本に帰って来た翌年の23歳までという一番人生の苦労の多かった時期に、いつもリルケを肌身離さず持っていて、読み耽ったのです。『藤野君のこと』(全集第25巻、258ページ)を書いた復員船の中でも、リルケのこの『形象詩集』を携行していたということになります。[註1]

[註1]
この時期、詩については、『第一の手紙~第四の手紙』で「詩以前」を論じています(全集第1巻、191ページ下段)。この散文を書いた1947年、安部公房23歳の時には、既に詩人安部公房にとっての危機と転機の時期が訪れていたのです。このときの危機は、詩人としての危機でした。

この危機をこのように『第一の手紙~第四の手紙』で存在論的に(正しくは超越論的にというべきでありましょう)思考して考え抜いて乗り越えて同じ歳に出版したということが『無名詩集』の持つ、それまでの10代の「一応是迄の自分に解答を与へ、今後の問題を定立し得た様に思つて居ります」(『中埜肇宛書簡第9信』。全集第1巻、268ページ)と哲学談義をした親しき友中埜肇に書いた『無名詩集』の持つ、安部公房の人生にとっての素晴らしい価値であり、安部公房の人生に持つ『無名詩集』の意義なのです。

小説については、この『猛獣の心に計算機の手を』で、「読者の存在」(全集第4巻、497ページ)と呼んでいます。「小説の存在」とは言わなかったのは、小説は読者あっての小説だという考えであるからです。ここで「読者の存在様式こそ、小説の表現(認識の構造)の様式を決定する」と書いておりますので、小説以前の存在を読者の存在として論じていることがわかります。この読者とは何を意味するかについては、『安部公房と共産手具』(もぐら通信第29号)の本文で、またその[註20]で論じた通りです。このときの危機は、小説家としての危機でした。そうして、シナリオ(drama、劇)を執筆する戯曲家たる安部公房が、小説家たる安部公房のこころを救済したのです。

戯曲と舞台についても、安部公房は同じ思考の順序を踏んでいて、1970年代の安部公房スタジオの俳優たちには、「戯曲以前」にまづ「言葉による存在」になること、俳優以前にまづ「言葉によって存在」することを要求しています。この言葉を読むと、安部公房が、この安部スタジオをどのような思いで立ち上げたのかが、よく判ります。これも、詩や小説の場合と同様に、10代の安部公房の詩の世界、即ち、時間の無い、自己が存在になることのできるリルケの純粋空間への回帰なのです。このときの危機は、戯曲家としての危機でした。

その淵源を求めて時間を遡れば、最初にこの何々以前という考え方が文字になっているのは、やはり20歳のときに書いた『詩と詩人(意識と無意識)』です。この詩論・詩人論では、「価値以前」と存在が呼ばれて、この存在を更に夜と言い換えて論じられております(全集第1巻、112ページ上段)。この『詩と詩人(意識と無意識)』は、『中埜肇宛書簡第1信』によれば、遅くとも此の書簡を書いた1943年10月14日、安部公房19歳の秋には、「新價値論とも云ふ可きものの体系」として考えられております(全集第1巻、68ページ下段)。


リルケという詩人が安部公房に教えたことは多々ありますが、その中の重要なことの一つは、一つの町(都市)、一つの国、一つの文明をまで、一篇の詩で創造して、それを安部公房に実際に示したことです。

このことは、安部公房に言語の力と詩の力を教え、安部公房の言語論が常に、安部公房の都市論(『燃えつきた地図』『都市を盗る』『都市の回路』等)、国家論(『けものたちは故郷をめざす』『死に急ぐ鯨たち』『方舟さくら丸』等々)、文明論(『死に急ぐ鯨たち』『もぐら日記』、書かれざるアメリカ論等々)と分かち難く結びついている理由になっています。
安部公房は、あるところで「ポーは文学だが、リルケは世界だ」と言っています。

この言葉は、こうも言い換えることができるでしょう。前者、即ち仮説設定の文学概念を学んだポーの世界は、現実に対して仮説を適用することによってどのように現実(人間を含む)が変形するのかを書くことであるのに対して、後者、即ちリルケに学んだ詩の世界は、変形のない、言語によって表現されてそのままの現実であるというように。後者の世界のその最たるものが、リルケの純粋空間、即ち変形のない、原型としての、存在の存在する(媒介としての)、関数として在る、時間の無い、その意味で純粋な、純粋空間なのです。

従い、リルケの詩を読むということは、その言葉をそのまま受け容れるということであり、詩を読むということは、言語(言葉)と読者との無媒介の、従い直観的な経験をするということなのです。

それが、リルケは世界だという安部公房の言葉の意味なのです。

さて、詩という藝術がそのようなものだとして、安部公房が普通のリルケの読者と一線を画しているのは、リルケの詩を抒情的に読まなかったということ、そうでは全くなく、その数学的な頭脳を以って、実に論理的に読んで、自家薬籠中のものにしたこと、上に述べたようにリルケの物に関する考え、即ち物に与えられ名付けられる言葉についての考え、更に即ち、言葉の概念が関数であり、従い機能であり、媒介であり、媒体(medium)であるということを、19歳の時には既に十分過ぎる位に理解していたことなのです。[註2]

このとき、10代の後半で、既に後年の言語論、晩年のクレオール論は勿論のこと、国家論、同様にはアメリカ論、即ち常に移動し変化し変形して止まない機能としての、媒介としての、(原型としての)存在の存在を求めて止まない相対概念である国家としてのアメリカ論は、ジーンズやコカコーラやハンバーガーやスーパーマンを素材として、既に遅くとも19歳の時に、完成していたのです。

[註2]
安部公房は後年、リルケを情緒的にではなく論理的に理解したことを次のように述べています(全集第24巻、143ページ下段から144ページ上段。「〈書斎にたずねて〉」)。1973年、安部公房、49歳。

「ぼくの初期作品について、よくリルケの影響を指摘されるけれど、リルケが自分の中で大きな根をおろしていたのは戦争中だ。リルケというのは非常に叙情的な面を持っているし、平気でぬけぬけと叙情におぼれるところがあって、そういう面はその後とても嫌いになった。ただ、リルケの持っている目に、以外と「物」に強くこだわる面があった。いろんな概念や観念の背景に必ず「物」が媒体にならなければ成り立たないという姿勢があって、それがとくに、戦争中のまわりの精神構造に対するアンチ•テーゼになってくれたんだな。だからある意味で、「物」とか「存在」ということに意識を集中させることで、時代の暗さを切り抜ける方法を求めていたのと思う。あの時代、手に入るぎりぎりの範囲で支えになり得るものといったら、やはりそれしかなかったんだ。」


このようなこの「物」を、安部公房は「投影体」と呼び、箱、壁、砂をそのような例として挙げております(1985年のインタビュー『方舟は発進せず』。全集第28巻、58ページ)。「投影体」とは、数学的には写像(map=地図)の問題であり(例えば『燃えつきた地図』)、言語論的•文学的には、ある体系の中のすべての語彙をどうやってもう一つの体系の語彙へとすべての対応関係(correspondence)を失うことなく変換するかという翻訳の問題であり、また変形(transform、topology=位相幾何学)の問題でもあります。

また、針生一郎との対談で、リルケを否定的な媒介としてリルケから脱却しようとしたという安部公房の次の発言があります(全集第5巻、441ページ~442ページ)。安部公房は対象を自分のものにするときにはいつも対象を否定的な媒介としてとらえて克服するのです。この場合、媒介といっておりますので、リルケ的なものを否定するばかりではなく、安部公房が理解し統合しようとしている対象もまた否定的なものとして考えられているのです。そうして、それらを一次元上の次元で統合しようとするのです。この思考論理は、20歳のときに書いた詩と詩作の理論篇『詩と詩人(意識と無意識)』で確立したものです。この相対立し、相矛盾するものを、両方を否定することによって「第三の客観」をもとめるという方法によって、安部公房はマルクス主義をも同様にして超克しようと考えました。従い、日本共産党員の時代にあっても、以下の対話を読みますと、「リルケ的なものを否定的媒介」にしている以上、安部公房はリルケの影のもとにいたのです。傍線は筆者。

「針生 リルケに影響を受けたのは?
 安部 戦争中だ。
 針生 『名もなき夜のために』(筆者註:1948年、安部公房24歳)のころは脱却してたの?
 安部 リルケ的なものとそうでないものとの対決を自分の中でさしていた。リルケ的なものを否定的媒介
    にしてゆこうということだった。超えてゆこうとするものと戻ろうとするものとが絶えず入りま
    じって妥協したり反撥したりしていた。しかし、あの形式で捉えられなくって『異端者の告発』
    (筆者註:1948年)を書いたのさ。そこから『デンドロカカリヤ』(筆者註:1952年)に
    抜けて行ったわけだ。」

『S・カルマ氏の犯罪』の中に次の詩があります(全集第2巻、438ページ下段):

「壁よ
 私はおまえの偉大ないとなみを頌める
 人間を生むために人間から生まれ
 人間から生まれるために人間を生み
 おまえは自然から人間を解き放った
 私はおまえを呼ぶ
 人間の仮設(ヒポテーゼ)と」
(下線部筆者)

壁は、安部公房がリルケに学んだ否定的な媒介であり関数でした。

また、1968年『三田文学』での秋山駿との対談で、次の発言があります。傍線筆者。

編集部 つまり、あの頃だったら(筆者註:思春期で文学書や哲学書を読みふけった戦時中の時期のこと)、安部さんのいうセンチメンタリズムというのがあって、それが小説形式に至ったりする場合、安部さんはそういうのが嫌いな方ですから、なぜ小説という方法を採用したか、そこがわからないんです。戦争中、梶井基次郎、堀さんのものなんか読む人が多かったですね。あるいは亀井勝一郎、リルケ、カロッサ、それで一種のセンチメンタリズムみたいな形で小説的方法というものにもたれかかるという感じがありましたが、それが安部さんにはないのですから論文でもお書きになった方がよかったのでは......。
安部 なんとなく小説には総合的表現があるというような感じがあったのじゃないかしら。
 僕もリルケは好きだった。けど、君の言うように抒情的には読まなかったな。リルケのことを書いたのは、ハイデッガーだっ たっけ……。」(全集第22巻、40ページ上段)


このような安部公房のリルケ理解、それが如何なることであったのかを、一つ一つのリルケの詩を実際に読みながら、あなたにお伝えできればと思っております。

以下、【原文】【散文訳】【解釈と鑑賞】という形式で、安部公房の読んで理解をした、論理的なリルケを、安部公房が「”物”と”実存”に関する対話」を抽き出したリルケを、お伝えすることに致します。

さて、恐らくあなたは、詩人が詩集を編むときに、一篇一篇の詩をどのように配置して並べるものなのかを考えたことはないでしょう。詩集には、ただ漫然と一篇一篇の詩が置かれているのではないのです。その配置に意味を持たせて、詩人は詩集を編むのです。それは、安部公房の『無名詩集』についても同様です。

この『形象詩集』の初版は1902年、その後1906年に第二版が出ていて、このとき更に37篇が追加されています。そうして、言わば決定版になった『形象詩集』が1913年にドイツのインゼル出版から刊行されていて、今回読もうとして私の手元にあるのは、このインゼル版の『形象詩集』です。

この詩集の詩は、リルケが1897年、25歳のときから、1906年、34歳までに書いた詩です。

この『形象詩集』は、次のような構成からなっております。

1。第1巻の第1章:22篇の詩
2。第1巻の第2章:24篇の詩
3。第2巻の第1章:15篇の詩
4。第2巻の第2章:26篇の詩

全部で2巻からなり、それぞれの巻が二つの章からなり、合計87篇の詩が収められております。

もう少し、この詩集の題名についての説明をしてから、本題に入ります。迂遠なようですが、安部公房という人間を理解するために大切なことですので、お聞きください。

この詩集は「形象詩集」と日本語訳されておりますが、正確には「形象詩集」ではなく、「形象の本」「形象の書物」「形象の巻」と訳されるべきものです。The Book of Imagesと英語であれば訳されるべき原題なのです。

『形象詩集』の後に、1905年、リルケは『時祷詩集』(『Das Stundenbuch』)と訳されている詩集を出しますが、この詩集も正しくは『時間の本』「時間の書物」「時間の巻」という意味です。この時間は、宗教的な祈りの時間ですので、日本語の訳では『時祷詩集』にある「時祷」という言葉を冠して呼ばれているわけです。The Book of Hours、或いはThe Book of The Hoursいうことになります。

本といえば、16世紀にドイツのグーテンベルグが印刷機を発明して以来、今では普通の所謂(いわゆる)本であり、紙の本ですし、最近では電子書籍という本まで出ていますが、ヨーロッパの人間にとって、その素材の如何を問わず、本とは単なる物体としての書物であるばかりではなく、歴史的・伝統的に、その構造を以って読むべき何ものかなのです。

「世間という書物を読む」という言い方、この慣用句が、古代ギリシャのプラトンの(確か)『国家』に出てきます。つまり社会を一冊の本として読み解くという意味です。時代が下って17世紀のバロック様式の時代になりますと、バロックの哲学者、デカルトの有名な著作『方法叙説』に書いてあることですが、スコラ哲学を学び尽くした後、やはり「世間という書物を読む」ために学窓を去って、従軍して、当時のドイツの30年戦争を実見する旅に出ますし、デカルトの旅をした同じこの時代のドイツには、ドイツのバロック小説の傑作『阿呆物語』が生まれており、この作品の当時の其の表紙は次のようなものです。



この表紙の中で、奇怪な姿をした主人公(人間という生き物はこのような奇怪な姿をしているのです)が手に持って指差している本が、書物としての世間であり人間社会なのです。この本の中には、王冠、大砲、城、杯等々世俗の諸物が描かれています。また、足元にはたくさんの人間の顔の仮面が落ちていて、これもまたバロック文学の形象(イメージ)と動機(モチーフ)の一つなのですが、これらのことを挙げるだけでも、またこの絵を見るだけでも、バロック文学が相当に安部公房の散文の世界に通じていることがお分かりでしょう。[註3]

[註3]
安部公房は、コリーヌ・プレのインタビューで次のように、日本文学と世界文学に関する自分自身の位置について語っています(全集第28巻、104~105ページ)。

「―― 安部さんは処女作『終りし道の標べに』から、すでに日本の伝統を拒絶しているように見えます。日本、
 もしくは世界文学の流れのなかで、自作をどのように位置づけているのですか?

 安部 その返事も誰か他人に任せましょう。僕も解答をぜひ聞かせてほしい。ただ言えることは、僕は日本語
 でしか考えることが出来ないということ。日本のなかで、日本語で考え、日本語で書いている。しかし日本以
 外にも読者がいるということは、現代が地域性を超えて、同時代化しているせいではないか。その点、言語の
 特殊性と普遍性についてのチョムスキーの考え方に同意せざるを得ません。すべての個別文法の底に、遺伝子
 レベルの深さで地下水のように普遍文法が流れているという考え方です。僕が拒絶したのは日本の伝統ではな
 く、あらゆる地域主義的な思想の現象に対してなのです。」

わたしは、このコリーヌ・プレの質問に対しての安部公房の答えにある「その返事も誰か他人に任せましょう。僕も解答をぜひ聞かせてほしい。」という此の言葉に答え、解答した人間の一人ということなります。

安部公房の日本文学史上の位置については、『夏目漱石と安部公房~日本文学史上の安部公房の位置について~』と題して、もぐら通信第31号で明確にしましたのでお読み下さい。

そうして、ここで、リルケの『形象詩集』の説明をするために触れざるを得なかった、つまり遂に触れることを回避することの出来なかったバロックの精神と其の様式が、安部公房の世界文学史上の、「世界文学の流れのなかで」の安部公房の、これも、明確なる位置なのです。

17世紀のバロック様式だけがバロックなのではありません。バロックの精神は、時代を問わず、国や言語や民族を問わずに、現れています。勿論、これはバロックという様式だけの話ではないことはいうまでもありません。
例えば、安部公房の好きな江戸時代、17世紀後半に俳諧という文藝を完成させた松尾芭蕉は、世界共時的な事実としても、バロックの詩人なのであり、また安部公房の眼からみてもやはり、バロックの詩人なのです。『安部公房の俳句論』(もぐら通信第21号)で、安部公房の俳句観を論じましたのでお読み下さい。その眼で芭蕉の俳諧の作品を読めば、俳句は、まさしく安部公房がバッハの音楽について語った通りの藝術となっております。今『梨という名前の天国への階段、天国への階段という名前の梨~従属文の中の安部公房論~』(もぐら通信第27号)よりバッハについての言葉を引用して、そのまま芭蕉の俳諧、即ち36句より構成される此の文藝に関する説明と致します。勿論、安部公房の好きであるバッハもバロックの音楽家です。以下、演奏を(演劇の)公演と読み替え、グールドを芭蕉と読み替え、フーガとカノンとピアノを俳諧又は俳句と読み替えてお読み下さい。:

「晩年、カナダの放送局から安部公房に「グレン・グールドを記念した番組」インタビューの打診があった。ふたりでグレン・グールドが作ったラジオドラマの録音風景を写したドキュメントテープを見た。
 イヌイットの言葉、カナダ人の言葉、異なる言語をコラージュした興味深い番組だった。グレン・グールドの感性と安部公房の感性はどこか似ていると思う。」(山口果林著『安部公房とわたし』195ページ)

今Wikipediaから、安部公房に共通の思考論理と感性を転記して、ここにまとめておきます。傍線は筆者。:http://ja.wikipedia.org/wiki/グレン・グールド   

1。演奏の一回性へ疑問を呈し、演奏者と聴衆の平等な関係志向して、演奏会からの引退を宣言していたグールド

2。1967年カナダ放送協会(CBC)が、グールドの製作したラジオドキュメンタリー北の理念(The Idea of North)」を放送する。その後も、「遅れてきた者たち」、「大地の静かな人々」といったラジオドキュメンタリーが放送された。
3。グールドの興味の対象はバッハのフーガなどのポリフォニー音楽であった。バッハは当時でももはや時代の主流ではなくなりつつあったポリフォニーを死ぬ直前まで追究しつづけたが、そうした時代から隔絶されたバッハの芸術至上主義的な姿勢に共感し、自らを投影した。
4。グールドは、ピアノはホモフォニーの楽器ではなく対位法的楽器であるという持論を持っており、ピアノ演奏においては対位法を重視した。事実、グールドのピアノ演奏は、各声部が明瞭で、一つ一つの音は明晰であり、多くはペダルをほとんど踏まない特徴的なノン・レガート奏法であった。
5。また、多くのピアニストと異なり和声よりも対位法を重視し、音色の興味に訴えるよりも音楽の構造から生み出される美を問うたことから、ショパンではなくバッハを愛好し、その興味はカノンフーガにあって、その演奏の音色はほぼ単色でリズムを重視、その奏法は左手を伴奏として使う他の多くのピアニストと異なり、左手のみならず全ての指に独立性を持たせていた。
6。グールドはピアノという楽器の中で完結するようなピアニズム嫌悪し、「ピアニストではなく音楽家かピアノで表現する作曲家だ」と主張した。

これらに加えて、もうひとつ重要な、グールドと安部公房の共通する感性を言うと、前者は、グレン・グールドの演奏と、安部公房の作曲とは、明らかに通底しています。何故ならば、グールドの言う「左手を伴奏として使う他の多くのピアニストと異なり、左手のみならず全ての指に独立性を持たせていた」という奏法は、まさしくバロック様式そのものの精神であり、これはそのまま安部公房の求めた総合藝術としての舞台藝術の、同じバロックの、すべての舞台を構成する要素が独立していて全体をなすという劇場観であるからです。[註]何故安部公房は舞台でバロック音楽を使ったのか。機会があれば、この二人を論じたいと思います。バロック様式の素晴らしい藝術家として。

[註]
『演劇と音楽と―バロック風にバロックを』(全集第25巻、350ページ上段段から351ページ上段)を参照。1975年、安部公房51歳。それから、『詩と詩人(意識と無意識)』(全集第1巻、104ページ下段から105ページ上段)を参照。1944年、安部公房20歳。『効く音楽』(全集第24巻、328ページ)1973年、安部公房49歳。


また、この安部公房の文学がバロック文学だという眼で日本文学史を眺めると、日本の古代の万葉集の長歌も、わたしの考えではバロックの詩歌だということになります。

バロックという視点から観た安部公房の文学の世界文学史上の位置についての話は、『安部公房とバロック様式』と題して稿を改めて論じます。


また、19世紀末から20世紀初頭のアメリカの詩人、Hart Crane(ハート・クレイン)という素晴らしい男色者の詩人、30歳でメキシコからニューヨークへ帰るその船上で異性の恋人にさようならと一言言って身を翻し海の中へ身投げをして自殺をした素晴らしい詩人がおりますが、この詩人の傑作『ブルックリン橋にて』の収められている詩集『橋』(『The Bridge』)のエピグラフは聖書のヨブ記を引用していて、そのヨブ記を英語でThe Book of Jobというのだというと、欧米人の本、書物、BOOKという言葉に抱いて来た歴史的・伝統的な意味がおわかりいただけるでしょう。(このJob(ヨブ)は、仕事のjob(ジョブ)に掛けた詩人らしい言葉遊びなのですし、この聖書のヨブ記の引用をして始まる世界は、実は昼間のjob(生業)の終わった後に、男色の男達が命を賭けて行う背徳的な男色の夜毎の地下室でのjob(性交)の話なのです。キリスト教の神聖なる名前を冒瀆する、この詩人のその歓喜と恐怖を思って下さい。)

わたしたち日本語の世界で、これに相当する本は、巻物と呼ばれる書物なのではないでしょうか。源氏物語絵巻、平清盛が厳島神社に奉納した平家納経の絵巻、一遍上人絵伝の絵巻、鳥獣戯画の絵巻物、藝道の免許皆伝の巻物、果ては忍者の巻物や、今ではコンビニエンスストアの棚に並んでいる海苔巻きや納豆巻きに至るまで。谷崎潤一郎はその『文章読本』の中で、日本人の作家の書く小説は、西洋のような立体的な構造を持つものではなくて、絵巻物だと言っております。わたしもその通りではないかと思います。この議論は今横に置いておくことに致します。

さて、リルケも同様に、その歴史的・伝統的なBookの意味を知った上で、その伝統に従って、その詩集、Das Buch der Bilder(ダス・ブーフ・デア・ビルダー)、即ち「形象(イメージ)の本」或いは「形象の巻」という題名を付けて、計87篇の詩を収めたのです。[註4]

[註4]
『もぐら感覚3』(もぐら通信第1号)から、安部公房の、書物ともぐらに関する言葉を引用します。安部公房にとって、現実という書物を読むことは、もぐらとして地中を掘り進むことであったことがわかります。即ち、陰画の世界をすべて言語に変換する行為、即ち「消しゴムで書く」という行為のことです。

「安部公房全集第28巻に「クレオールの魂」というエッセイが収録されています。

これは、題名の通りにクレオールという言語形態を論じた論考です。これは、安部公房の言語論です。

このエッセイの最後に、次のような文章があります。文脈がわかるように、少し長いのですが、引用します。一番最後の段落です。政治、即ち言語による人間の組織化と儀式、そして伝統と、それらと言語の関係を論じてから、次のように言葉を終えています。

「だからと言って絶望するのはまだ早い。バイオ•プログラムとして言語を約束された人間、伝統に刃向かうことを生得的に運命づけられた人間が、こんな儀式過剰の世界に甘んじていられるわけがないだろう。外では最大規模にまで肥大した国家群が辺境の隅々にまで監視の目を光らせ、異端の侵入を拒みつづけるつもりなら、伝統拒否者は足元の地面に穴を掘りはじめるだけの話である。たとえばカフカやベケットのような先例もある。伝統からはかぎりなく遠い、クレオールの魂を思わせる中性的な文体で地面を掘りすすんだ作家たちだ。だからこれからは書物の時代なのかもしれない。内なる辺境への探索には、なんと言っても書物がいちばんだろう。
 人間の脳は欲が深いのだ。                  [1987.2.24]」

また、同じ歳の6月3日に書かれたチャールスという人物に書かれた書簡の言葉を。このチャールスという男性が、安部公房をアメリカに来るように招待したことが、その前後の文面から察せられます。その、やはり、一番最後の段落を以下に引用します。安部公房が超能力少年(スプーン曲げの少年)の話を構想していたときの手紙です。

こうしてみると、何故か「もぐら」という言葉、もぐらの譬喩(ひゆ)は、いつも一番最後に出て来ます。それが、安部公房にとってのもぐらなのでしょう。

「来春ぼくのモグラがアメリカで這い出すまでには、超能力少年との勝負にも決着をつけてしまいたいものです。」

これらの引用を読むと、安部公房が、もぐらというイメージをどう考えて、それが何だと思っていたかは、明らかです。」

また、書物、本、BOOKということから、1973年に何故安部公房は安部公房スタジオを立ち上げたかと言いますと、それは安部公房の世界観、即ち20歳のときの、詩人のあり方を理論的に確立した論文『詩と詩人(意識と無意識)』に明確に「生の戯曲」と書かれてるように、安部公房は、生(life)の世界を一冊の戯曲(本)であると考えていたからです。即ち普通は戯曲(本)があって、舞台があると考えているのですが、安部公房はそうではなく、舞台(時間と空間が「自立しながら交差する場所としての舞台」(『時空の交差点としての舞台』、全集第24巻、512ページ)、即ち「十字路」[註4-1]としての現実である世界)の上に、書物である戯曲を書こうとし、創造しようとしたのです。戯曲を書くとは、文字と記号を使って生を言語に変換することです。
この意味でも、『阿呆物語』の表紙絵でお伝えしたように、安部公房はバロックの作家です。勿論、この思想は、10代の詩群によって完成しておりました。当然のことながら、その書物は、『ガイドブック』(人が差異の通路を通ってその向こうのまたしても贋である現実という差異へと導く案内のための本)と呼ばれ、言語(言葉)で書かれており、言語の意味とは差異(隙間)であり、関係であり、関数であり、媒介であり、実体の無いものでありますから(安部公房の言語機能論)、役者には「言葉、あるいは意味の伝達人になるなということを、くどいくらいに」教え(全集第22巻の『贋月報』の井川比佐志の言葉)、役(機能)を演じることは、双方の役者の間に、隙間に、差異に、関係を動態的に創造することだ、それこそが科白(せりふ)であり、演技であり、演劇であり、世界が劇場だという意味だと教えたのです。一言で言えば、安部公房は、安部公房スタジオの若い役者に役者以前の人間として存在(媒介)になることを教えたのです。詳細な安部公房スタジオ論は後日と致します。

[註4-1]
安部公房がリルケに学んだ十字路の深い意味は、『もぐら感覚:ミリタリィ・ルック』(もぐら通信第27号と第28号)をご覧ください。そうして其の更に一層深い意味は、『安部公房の奉天の窓~安部公房の数学的能力~』(もぐら通信第32号、第33号、第34号)で論じていますので、これをお読み下さい。


言い換えれば、本とは、時代や現実や世界を映す鏡だと言ってもいいでしょう。鏡としての本、言葉で記述された、世界の鏡です。

『形象詩集』の最初の詩は、Eingang(アインガング)、英語でEntranceDoorway、日本語で入り口という題名の詩です。その最後の詩は、Schluszstück(シュルスシュテュック)、Closing Piece終わりの作品、締めの作品と題されていて、その内容は、死と「笑う唇」を歌った詩です。

このように話をしますと、後者の詩と同類の発想の詩を、わたしたちは『無名詩集』の最初の詩『笑ひ』に見ることができます。安部公房は、『形象詩集』の最後の詩を、自分の詩集の最初に置いたことになります。(勿論、詩の内容は、安部公房独自の確立したものになっております。)

こうしてみますと、入り口は出口であり、出口は死であり、出口が死であるならば、これから読むこの入り口もまた死なのではないでしょうか。何故なら、それは親しい者と別れることだからです。そうして、この別れは、単なるこの世での、一次元の時間の中での普通の死ではないのです。

リルケは、その別れを門出と呼び、旅立ちと呼ぶのです。この動機(モチーフ)とそのような遥かなる距離を、リルケは繰り返し歌います。これは、そのまま生涯の安部公房の主題です。

いよいよ本題に入ります。

【原文】

EINGANG

Wer du auch seist: am Abend tritt hinaus
aus deiner Stube, drin du alles weißt;
als letztes vor der Ferne liegt dein Haus:
wer du auch seist.
Mit deinen Augen, welche müde kaum
von der verbrauchten Schwelle sich befrein,
hebst du ganz langsam einen schwarzen Baum
und stellst ihn vor den Himmel: schlank, allein.
Und hast die Welt gemacht. Und sie ist groß
und wie ein Wort, das noch im Schweigen reift.
Und wie dein Wille ihren Sinn begreift,
lassen sie deine Augen zärtlich los...

【散文訳】

入り口

お前が誰であろうとも:夕方には外に出よ
お前の部屋から、その中ではお前は全てを知っているその部屋から外へ、何故ならば
遥かな距離の前に在る最後のものとして、お前の家はあるのだから
お前が誰であろうとも。
お前の両眼は、疲れていて、
消費され消耗した敷居からほとんど自由になることはないが、
その眼を用いて、お前は、極くゆっくりと、一本の黒い木を持ち上げる
そして、その木を天の前に立てる:しなやかにほっそりとして、一人で。
そして、お前は世界をつくったのだ。そして、その世界は偉大だ
未だ沈黙の中に在って成熟している一つの言葉のように。
そして、お前の意志が、その世界の本当の意味を掴(つか)まえ、理解するに従って
お前の眼は、その世界を、優しく愛撫しながら、解き放つのだ...

【解釈と鑑賞】

この詩は、あるいは詩というものは、上に述べましたように、書かれたそのままをその通りに無媒介で受け取る以外にはないものです。この読み方に堪え得る詩だけが、一流の詩です。

安部公房の作品をよく寓話ととる人がいますし、そのような読者の多々いることも確かですが、しかしそれは安部公房自らが言っている通りで、安部公房の作品の読み方ではない。安部公房は寓話を書いているのではないからです。

即ち、安部公房の言葉の性質は、詩の言葉の性質を同じなのです。その言葉をその通りに受け取るということが大切なことなのです。そうして、そうやってみて、この詩に何か難しさを感じたら、それは安部公房の小説の言葉を読むときの難しさと全く同じなのです。

そうして、上の詩を読んで、よくわからないところがある、これは何をいっているのだろうと思い、引っ掛かる言葉が、あなたにはあるでしょう。それが、この詩を理解する鍵なのです。

その鍵を手にしたまま、次の段階に入ります。即ち、詩の言葉をそのまま素直に受け取った後に、解釈をするのです。

解釈ということは、何かと比較をして初めて成り立つものです。

あなたが何と比較をして、この詩を理解するかで、この詩の解釈は変わります。一つの詩の解釈はいかようにでも多彩多様にあり得るのです。人の頭の数と、その中にある思いの数だけ。ここでは、安部公房の世界とリルケの世界を比較して、前者の世界を解釈し、理解しようというのです。後者は、そのための助けとなります。

この詩は行間のない一つの詩となっていますが、読解の都合上、句点の打ってある一まとまりごとに、一つの連と仮にここでは考えて、最初の4行を第1連、次の4行を第2連、その次の2行を第3連、最後の2行を第4連と呼ぶことにします。即ち、この詩を、

お前が誰であろうとも:夕方には外に出よ
お前の部屋から、その中ではお前は全てを知っているその部屋から外へ、何故ならば
遥かな距離の前に在る最後のものとして、お前の家はあるのだから
お前が誰であろうとも。

お前の両眼は、疲れていて、
消費され消耗した敷居からほとんど自由になることはないが、
その眼を用いて、お前は、極くゆっくりと、一本の黒い木を持ち上げる
そして、その木を天の前に立てる:しなやかにほっそりとして、一人で。

そして、お前は世界をつくったのだ。そして、その世界は偉大だ
未だ沈黙の中に在って成熟している一つの言葉のように。

そして、お前の意志が、その世界の本当の意味を掴(つか)まえ、理解するに従って
お前の眼は、その世界を、優しく愛撫しながら、解き放つのだ...

と四つに分けて、ひとつひとつの連を読むことにします。そうして、最後にまとめることにしましょう。

第1連:

「お前が誰であろうとも」とは、お前が誰であろうが、即ち男であろうが女であろうが、教師であろうが生徒であろうが、どこそこの生まれであろうがそうでなかろうが、警察官であろうが、消防士であろうが、また、お前が何の何兵衛、何の何子であろうが、という意味です。

これは、文法用語でいう認容文出会って、条件文の一つです。この「お前が誰であろうとも」という条件文は、副文であって主文ではなく、庭であって母屋ではないのです。

この「お前が誰であろうとも」という状態にある私のことを、十代の安部公房は、後年言っているように、未分化の実存と理解し、そう呼んだのです(『錨なき方舟の時代』、全集第27巻、167ページ下段)。

即ち、「お前が誰であろうとも」ということは、主たる文(主文)にはなく、二次的な、二義的な、周辺にある、条件文(副次的な文)の中にあるということ、これが未分化の実存という言葉の持つ意味の一つなのです。

更に即ち、「お前が誰であろうと」いいのですから、お前と呼びかけられる読者たる私は、有名ではなく、無名の人間だということになります。

この人間にとっては、この条件文に棲むこと、即ち二次的な、二義的な場所に棲み、その直ぐ隣にある境界線とその向こう(にある主文と主文を構成する主語)を、国境と呼び国家と呼ぶか、それを孤独と呼び、その向こうにいる人間を隣人と呼ぶか(或いは呼ばずに)他者他人と呼ぶか、カーブと呼び、その向こうを「カーブの向こう」と呼ぶのかは、本質的には皆全く同じことなのです。

そうして、この位置を保持したままの移動を「周辺飛行」と呼び、何故ならばflying(飛行)とは、放浪する、さ迷うという意味でありますから、絶えず移動をして旅することになり、そのような周辺という二義的な、条件文の場所を辺境と呼べば、そこは「内なる辺境」となるのです。

これらのことは、安部公房の語彙を使って説明をしたものですが、しかし、これはそのままリルケが、この詩の冒頭の「お前が誰であろうとも」という一句、この認容文で、19歳の安部公房に教えたことなのです。

安部公房は、この最初の言葉を読んで、これらのことを理解したのです。

そうして大切なことは、この「お前が誰であろうとも」で始まる「形象詩集」を、祖国日本に帰還しようと復員船に乗っている間も読み耽っていたということ、即ち、大陸で満洲国が崩壊し、失われた、存在しない国になったその国から、同様に戦争に敗れて国家の独立性を喪失した大日本帝国という国の間を、大陸から日本列島へと移動しながら、そうして従い存在しない国境を越えながら、読み耽ったということ、このことの持つこの詩集の意義は、安部公房の人生にとっては、実に意義深いものがあります。

その最初の言葉が、無名である私を歌った認容文であって、主文ではなく、二次的な条件文であったということ、中心にではなく、周縁に棲むことであったこと、無名の人間として、即ち未分化の実存として、二つの失われた祖国の国境を越えることであったこと、これが、安部公房にとってのリルケの『形象詩集』の持つ、そのまま最晩年に至るまでの深い意義であり、深い影響であったのです。

さて、このように最初の条件文を理解して、その次に来るのは、夕方、夕暮れデス。

夕暮れというのは、昼と夜の境目の時間、これも境目の時間です。やはり、時間の境界なのです。そして、この境界は、時間が朝から昼になるために通過する境界ではなく、昼から夜になるために通過する境界なのです。

最初の「お前が誰であろうとも」という認容文と、この「夕暮れには」という言葉で
始まる主文との間には「:」(コロン)があって、これは、即ちという意味です。

即ち、この詩は、最初の条件文の意味を説いた詩なのです。この小説は、最初の条件文の意味を説いた小説なのです、と言い換えると、そのまま安部公房の小説の世界のことになるでしょう。

そうすると、安部公房の小説はみな、上位接続(積算)された空間(次元)へのEingang(アインガング)、即ち入り口を描いたものと理解されるでしょう。

と、このように考えて参りますと、この「お前が誰であろうとも」という最初に置かれた認容文は、この詩の入り口であるのみならず、この詩集全体の入り口であることに気づきます。詩人は、このように多層的に、多重的に、多次元的に、言葉を用います。これは、安部公房の持つ言葉の性質と全く同じです。

さて、そうしてその次に、やはり、ここに部屋という言葉、安部公房にとっては重要な言葉が出てきます。

安部ねり著『安部公房伝』に、小学生の安部公房の書いた部屋の詩が掲載されています(同書26ページ)。

「「クリヌクイ クリヌクイ」
 カーテンにうつる月のかげ」

この月光の反照する窓を持つ夜の部屋は、安部公房の一生の部屋であり続けました。
(安部公房の部屋については、『もぐら感覚18:部屋』(もぐら通信第16号)で、この部屋がどのように成長を遂げるかを詳しく論じましたので、ご覧ください。)

安部公房は、復員船で国境を越え、海を渡りながら、間違いなく、自分の部屋を出ていることを実感したことでしょう。

しかし、安部公房は、この月の部屋に留まりたいと願っていました。何故ならば、この部屋は、安部公房が求めた静謐と静寂があるからです。無音の、沈黙の、従い時間の無い空間です。これが、本来の安部公房の世界です。

しかし、リルケは、

「夕方には外に出よ
 お前の部屋から、その中ではお前は全てを知っているその部屋から外へ」

と命じるのです。「何故ならば/遥かな距離の前に在る最後のものとして、お前の家はあるのだから/お前が誰であろうとも。」

確かに、この時、22歳の無名の安部公房は、このリルケの部屋を出よという命令とに従って、「遥かな距離の前に在る最後のものとして」あった満洲国の「お前の家」を出て、遥かな旅に立ち、独立を失った日本の国を目指す途上であったのです。このように書くだけで、『けものたちは故郷をめざす』の主人公たちの世界が眼前に彷彿と致します。

安部公房が自ら望んでその部屋を出たのではないことの判る詩があります。『嵐の後』と題した詩です(全集第1巻、119ページ~120ページ)。その一部に次の連があります。1944年、安部公房20歳です。

「価値も幸福も美しさも
 私が未だあの心の部屋に閉ぢこもつて
 窓にうつる反照を現実であると思つてゐた頃の
 青い未熟な果実だつたのだ。

 あの小部屋が嵐の為に吹き破られて
 孤独な砂丘に立った時
 あれが私の生誕だつたのだ。
 愛と生の出発だつたのだ。

 おゝ悦ばしき今、
 此の無関心な一点を
 しかし私は愛するのだ
 無関心である事が現実の総てなのだから......

 [1944.6.21]」

日本の敗戦は1945年ですから、この詩はその前年のものです。従い、ここに歌われている安部公房の「あの小部屋」を「吹き破」った事件が何であったのか、それは敗戦でないことは確かです。

しかし、この時既に『形象詩集』を読んでいたのですから、自分の生活の中で何か嵐と呼ぶべき程に大きな強い事件が起こり、リルケのいう通りに部屋を出て、「孤独な砂丘に立つ」決心をしたのです。

それが、「愛と生の出発だつたのだ」とあるのは、リルケの詩の通りです。この『嵐の後』という詩のこの言葉は、繰り返し、安部公房の主題としてすべての作品の中に、愛という言葉を隠して現れています。それほど、自分の大事な場所とそこに住む人と別れること、そうして遥かな距離へと出立することは、安部公房の愛の証明として、こころの中に秘しておくべきことであり、大切な安部公房のこころでありました。[註5]

[註5]
或いは、ここまでのリルケの詩行を読んで来て、あなたは芥川賞受賞作『壁』所収の『赤い繭』の部屋を求めてさ迷う主人公や、『魔法のチョーク』で部屋の中の壁に絵を書いて部屋からの脱出を図るアルゴン君を思い出すかも知れません。前者は、冒頭から、やはり「日が暮れかかる」時間の差異、時間の割れ目である夕暮れに主人公は物理的な差異を、即ち「家と家との間の狭い割目」を通って、「帰る家がない」其の無い家を求めて放浪するのですし、後者は、その無名の主人公が、同じ物理的な差異であり別の次元への通路である「場末のアパートの便所」の隣に冒頭から住んでいて、やはり時間の割れ目である「再び夕暮れがちかづいた時」に魔法のチョークは威力を発揮するのです。

安部公房の主人公たちは皆、差異の空間(割目や隙間)、差異の時間(夕暮)に、そうして更に、それらの差異の交差した十字路に棲んでいるのです。(安部公房がリルケに学んだ十字路の深い意味は、『もぐら感覚:ミリタリィ・ルック』(もぐら通信第27号と第28号)をご覧ください。そうして更に其の一層深い意味は、『安部公房の奉天の窓の暗号を解読する~安部公房の数学的能力~』(もぐら通信第32号、第33号、第34号)で論じていますので、これをお読み下さい。安部公房の世界観については稿を改めて論じます。)


安部公房の主人公たちは、部屋の中で手紙や手記やノートを書きます。『第一の手紙~第四の手紙』『終りし道の標べに』『他人の顔』『箱男』『密会』『カンガルー・ノート』、その他にも、わたしが知らずにいてあなたの知っている部屋と手記の組み合わせの作品がまだまだあることでしょう。部屋は、これらの主人公が孤独に還る場所なのであり、その孤独の中で手記を書くことは、いつも愛と別れと死と、そうしてこの『入り口』と題した詩にあるように、遥かな距離、即ち差異、を前提にしているのです。

そうそう、『壁』所収の『S・カルマ氏の犯罪』に次の詩がありました(全集第2巻、435ページ~436ページ)。

「これがおまえの部屋でないというのなら
 私は色鉛筆を食べて死んでもいい
 一ダース百二十円の色鉛筆
 半分食べれば確実という証明書つきのやつを
 いっぺんに全部食べて死んでもいい

 これがおまえの部屋でないというのなら
 私は魚の骨を千本喉につきたてて死んでもいい
 一匹百円の黒鯛を三匹
 思う存分猫にしゃぶらせたかす
 いっぺんに全部飲込んで死んでもいい

 しかしこれは確におまえの部屋なのだから
 私は色鉛筆を食べなくてもいいのだ
 黒鯛の骨も飲まなくていいのだ
 私は合計四百二十円もうかった
 しかしおまえだって別に損したわけではない

 確にこれはおまえの部屋なのだ
 私は決しておまえから四百二十円もらおうなどと思わ
  ないのだ
 不思議なことだと思うかもしれないが
 よく考えてみればそうでもない
 私は決して恩にきせたりはしないだろう」

それ故に、この詩にあるように、この部屋の中にいる限りは、この部屋が「お前の部屋」であって、そこにその人間である私がいれば「私は色鉛筆を食べ」なくても良いのだし、「鯛の骨も飲まなくていいのだ」し、「四百二十円もらおうなどと思わ/ないのだ」し、即ち、死ぬことがないのです。社会的な分化の中へ、即ち交換関係の中へと入って行くと、この私は死ぬのです。

しかし、リルケの『入り口』という詩は、読者である安部公房に、死へと旅立つことを、その冒頭で「夕方には外に出よ/お前の部屋から、その中ではお前は全てを知っているその部屋から外へ」と命令しているのです。

そうして、安部公房は、実に忠実に、一心不乱に、このリルケの命令に従ったのです。大は、二つの失われた国の存在しない境界線を越えながら、小は、隣にいる他人との境界線を越えながら、自分自身の命を救い、無名で無償の、本当の人生を、その境界域で生きるために。そうして、自分の愛の正しさを、別れと死と、それによって遥かな距離(差異)をゼロ(無)にすることによって、即ち一言で言えば自己を喪失することによって、証明するために。安部公房の終生の主題は、これであったといって良いのです。

19歳の安部公房は、哲学談義をした親しき友中埜肇に次のような手紙を書いています(『中埜肇宛書簡第1信』、全集第1巻、70ページ)

「 愛!君は浮かび上がると云ふのですか。
 けれど、ニーチェとリルケを読んでください。何んの為に君には同情が必要なので 
 せう。愛!さうです。お願ひです。其の指標を、道しるべを見失はないで下さい。
 そこには、君の今、浮び上がると云ふ言葉で表現した、そのものの内には、きつと
 ツアラトゥストラの没落が始まるでせう。概念より生への没落です。
 (略)
 そして忘れず、きつとリルケは讀んで下さい。これから君の出遇ふ幾多の嵐の前
 に、きつと君の魂を守つて呉れる事と思ひます。リルケ自身も、前大戦の最中に、
 ある山中で敗血症にたほれた人です。
 だが、解って居ます。必要の無いことでした。紙がおしいから書きつづけるまでの
 事。こんな手紙は引きさいて終ひたい。何を書いたのだ。笑つて下さい。「何だ、
 こいつもか」とね。大いに嘲笑して下さい。
 唯僕は今、君の其の未知の力----愛----について知りたい。
 僕は今、実に妙な精神状態です。僕は案外弱いのです。相手の(と少くとも僕は思
 ふ)魂を無視して迄も、自分のたましいの中にひたり込むと云ふ事の出来ない人間
 なのです。今僕の魂の弦は、唯、弱々しく悲しげな未知の響きを発する丈です。
 どうか君の現実に対する無理解をとがめないで下さい。
 ............
 ............

 人々は魂を求め合って居ます。僕流に云へば、人々は、自分自身に云ひきかせたが
 つて居ます。......愛。

[1943.10.26]」 

この手紙からわかることは多々ありますが、その内の一つは、リルケの愛と別れと死と遥かな距離(差異)と一緒に、裏表に裏腹にニーチェのツァラトゥストラの思想を『概念から生への没落』として統合して、一つのものと、既にこの19歳のときに、していたということです。そうして、当然のことながら、このときこの安部公房の思想は、既に「お前が誰であろうと」という境界域にあったということなのです。

この境界域は、言葉を変えると余白ですので、それを、上の手紙では、安部公房らしく「 ............/............」で表しているのです。

境界域が余白であるとは、この「お前が誰であろうと」という二次的な副次的な条件文は、世の中の分化した人間たちには忘却されていて、日常意識されることが全くなく、忘れ去られている言葉であり、隙間であり、差異であるからです。この忘却された余白という差異を知るのは、未分化の実存にいる忘却された人間だけなのであり、上の中埜肇への言葉で言えば「魂を求め合って居」る「人々」なのであり、安部公房「流に云へば」、「魂を求め合って居」る其の愛の実在することを「自分自身に云ひきかせたがつて居」る人々なのです。

あなたは「お前が誰であろうと」と思いながら此のように毎日を生きていますか?人間としての道徳を喪うことなく。これがリルケから安部公房が学んだことなのであり、安部公房からあなたへの問いかけなのです。

『中埜肇宛書簡第3信』(全集第1巻、72ページ~73ページ)にも、この手紙に読みとったのと同じことが語られていて、当時19歳の安部公房がこの友と何をどのように語り合ったのかが、よくわかります。この手紙を読みますと、既にこのとき20歳で書き上げた『詩と詩人(意識と無意識)』の構想が出来上がっていたことがわかります。ニーチェに学んだ「概念から生への没落」を述べた後に、没落ということから同じリルケの『秋』という、木の葉の落る季節から地球という天体が落ちることまでを歌った、安部公房の大好きな詩を全文引用しているからです。

安部公房の部屋を論じると、これも尽きませんが、次の連を読むことに致します。

第2連:

「お前の両眼は、疲れていて、
 消費され消耗した敷居からほとんど自由になることはないが、
 その眼を用いて、お前は、極くゆっくりと、一本の黒い木を持ち上げる
 そして、その木を天の前に立てる:しなやかにほっそりとして、一人で。」

この連で言っていることは、眼の力を以って、一本の樹木を持ち上げること、持ち上げて天の前に立てることです。

樹木という主題は、この詩以外にも、これから登場しますし、この樹木は『形象詩集』のみならず、リルケの例えば最晩年の傑作『オルフェウスへのソネット』にも出て参ります。

何故樹木なのかと言いますと、これからこの詩集に出てくる樹木やその他の作品の樹木を見ると一層よくわかりますが、リルケはこの垂直に立って垂直に成長する木という生き物を、時間の無い空間、即ち純粋空間を生きる生物の象徴として歌っているからなのです。何故ならば、高さには時間は存在しないからです。垂直の高さには時間は存在しないのです。

このことは、例えば『箱男』の最後に登場する次の詩にも歌われています。この詩の該当箇所のみを今引用します(全集第24巻、138ページ下段)。傍線筆者。

「もし まんべんなく風化した
 平らな時計を持っている者がいたら
 それはスタートしそこなった 一周おくれの彼
 
 だからいつも世界は
 一周進みすぎている
 彼が見ているつもりになっているのは
 まだ始まってもいない世界
 幻の時
 針は文字盤に垂直に立ち
 開幕のベルも聞かずに
 劇は終わった

文字盤の上に針が垂直に立っているという意味は、高さだけがあって、高さには時間が無いという意味です。繰り返しますが、リルケの『オルフェウスへのソネット』にも、この垂直に成長するものの形象が、樹木やオルフェウス自身の姿として、また安部公房のこの詩にある「開幕のベル」と同じ無音の、沈黙の、鳴らなかったベルの音であるのと同じ鐘楼の鐘の鳴る其の梁の姿として歌われております。安部公房は、リルケを本当に良く、深く読み自家薬籠中のものとしました。

この引用は、この詩の後半ですが、その前半と相俟って、そして何故この詩がこの小説の最後に出てくるのかは、また稿を改めて論じます。結論を今ここに備忘のように書きとどめると、この詩は、また詩というものは、安部公房の小説では、登場する時にはいつも物語の最後に登場する(時間の無い)「明日の新聞」なのです。

「お前の両眼は、疲れていて、
 消費され消耗した敷居からほとんど自由になることはない」

とは、敷居ということから、これは家の敷居であって、内部と外部を隔てる境界線であり、この境界線を人間はいつも出たり入ったり頻繁にして日々の暮らしをしております。それ故に「消費され消耗した敷居」と謳われているのであり、この敷居のあり方から、人間は自由になることはないのです。もし、あなたが家を所有しているのであれば。箱の中に住むのではなく。

しかし、ここでお前と呼びかけられている者は、敷居を出入りする者ではなく、従い、家を所有しているものではありません。それは眼であって、見ているものです。しかも、この見ているものは、ただ見ているのではありません。何故ならば、

「その眼を用いて、お前は、極くゆっくりと、一本の黒い木を持ち上げる
 そして、その木を天の前に立てる」

からです。

ジョージ・ルーカスの映画『スター・ウォーズ』で、ジェダイの騎士がforce(フォース)という力、権力(power)が下位にある現実的な階層に発現して実際に物を動かすあの強制的な力(force)を思ってみると良いでしょう。

リルケは、それと同じことをこの詩で歌っているのです。眼には、実際にそのように、時間の無い空間に生きる樹木を動かして立てる力があるのですし、因果関係の前後はもはや不明ですが(何故ならば因果関係は時間の連鎖だから)、ですからこの契機には既にしてそこには時間は存在しないわけですから、そのように樹木が垂直に立てば、後先なく前後なく、そこに時間のない純粋空間が生まれるのです。(このように人・物・事がそこに生まれ、登場し、存在する在り方を、哲学用語では、超越論的(transzendental、トランツェンデンタール)といいます。この言葉「既にして」という言葉の意味ー正確には、概念といいますーについては、繰り返し、『安部公房の奉天の窓の暗号を解読する~安部公房の数学的能力について~』で説明を致します。安部公房はリルケから、このような超越論的な言葉(概念)ー例えば此の詩にあるような水平と垂直という概念ーの交換を学んだのです。

従い、リルケは、

「お前は世界をつくったのだ。そして、その世界は偉大だ」

と続けるのです。

そうして、その世界は「未だ沈黙の中に在って成熟している一つの言葉のように」存在している。

一つの言葉には、そのような世界が既にして宿っているという思想であり、詩想です。

このような時間のない純粋空間の中に飛翔する、『さまざまな父』の主人公や『飛ぶ男』の贋の弟や、もっと遡って『バベルの塔の狸』の「とらぬ狸」を思い出すことは、脈絡の通じたことだと思います。

また、この垂直に立てる樹木は、黒い色をしておりますが、リルケのこの詩集にもこれから黒い色で形容される言葉が幾つも出てきます。これらを先取りして眺めると、この色は、硬さや夜や内部から外部へと出ることや、やはり戸口や、そうして孤独や、夜を孤独に飛翔することや、従いそのような鳥や草や蛇やらに関して使われております。ここではまづそのような意味を察して、追い追いその意味を読み込んで参りたいと思います。

さて、話が前後しますが、

「そして、その木を天の前に立てる:しなやかにほっそりとして、一人で。」

とある、この「しなやかにほっそりと、一人で。」と訳したこの箇所は、ドイツ語の形容詞と副詞は形が同じですので、樹木がそうであるようにも読めるし、お前と呼びかけられている主人公が、そのようにな状態で樹木を立てるという風にも読めるのです。

この二つの意味を掛け合わせてリルケはこの一行を書いているのです。

天の前に眼の立てる樹木の立ち上がる姿のその樹木と、立てるそのお前と呼ばれる人間とが一体になっているのです。恰も立てる人間が立てられる樹木と同じになって、天の前に立ち立てられるかの如くに、です。天の前では、対象(もの)と自己がひとつになって言葉で表現することができるのです。

このリルケの詩の骨法を、安部公房は自得して、例えば、『形象詩集』を読み始めた同じ19歳に書いたエッセイ『〈今僕はこうやって〉』に次のように書いています。このように『形象詩集』を読み解くことで、初めて次のような19歳の安部公房の言葉の意味を、わたしたちは理解することができます。傍線筆者。

「 例えば今此の庭に立つ見事な二本の樹を見給え。見る見る内に生が僕の全身から流れ出して其の樹の葉むらに泳ぎ著く。何と云うゆらめきが拡がる事だろう。僕の心に繋ろうとする努力がありありと見えて来る。さあ、此処で僕達が若し最善を発揮しようとしたならば一体何うすべきなのだろうか。こんなに僕を感じさせる或るもの、そこにある秘密を見抜く可きであろうか。いやいやそんな事ではあるまい。それは限りある行為であり外面への固定に過ぎないのではあるまいか。」(全集第1巻、89ページ)

また、このリルケの眼について、1944年1月9日付『中埜肇宛書簡第5信』で、次のように述べています(全集第1巻、92ページ)。

「 中埜君、
  御変りありませんか。昨日やつと旅行から歸つて参りました。永い旅でした。丁
 度リルケかがロダンから學んだ如く、僕もリルケから「先づ見る事」を學びまし
 た。そして旅とは、きつとそんなものなのでせう。」

これが、安部公房の眼、絶えず出発をし、旅をして止まない「お前の眼」なのです。

第3連:

最後の連です。

「そして、お前の意志が、その世界の本当の意味を掴(つか)まえ、理解するに従っ
 て
 お前の眼は、その世界を、優しく愛撫しながら、解き放つのだ...」

この最後の連で歌われているのは、そのような眼が、自分で一つの世界を創造した後に、何をするのかということです。

一言で言えば、「解き放つ」と訳したドイツ語loslassen(ロースラッセン)は、わたしたちの日本語の言葉で言えば、仏教の言葉でいう、放下(ほうげ)、布施、喜捨という言葉に当たるでしょう。

しかし、大事なことは、この眼の行いは、対価を全く期待していないということ、即ち未分化の実存は交換関係の中にはいませんので、ただ無償の行為として、報われることなく、これを手放すということなのです。文化人類学用語で言う、絶対贈与の行為、ただ与えるだけの行為です。

この最後の一行は、最初の一行の「お前が誰であろうとも」に呼応しているのです。始めが終り、終りが始めなのです。この詩そのものが循環構造を隠し持っているのです。

普通、世俗に生きる人間は、所有の中に生きていますから、何かを無償で手放すことはしませんし、出来ないことです。いつも対価を求め、何かと交換をして、その物を手放すのです。あなたもその筈です。

そうしてみると、このリルケの「意志」という意志は、普通の意志と異なり、所有する意志ではなく、放棄する意志であり、無償の意志であり、無償に手放す意志であるということになります。

普通、意志は、そのままの意味ですと、何かをしたいという強い欲求でありますから、それはそのまま所有の意志、他のものと衝突することになる意志でありますが、しかし、それが「その世界の本当の意味を掴(つか)まえ、理解する」と、その程度に応じて、それに従って、その世界を解き放つのだと、この詩は言っています。

「優しく愛撫しながら」解き放つ、というこの副詞に、言ってみてば、意志の意志自身の超克というものがあるのです。これはこのまま、安部公房が読者に対して、自分の作品という世界を無償で手放すことによって示す優しさなのです。

しかし、この「優しく愛撫しながら」と訳したドイツ語のzärtlich(ツェールトリッヒ)とは、このように考えて参りますと、日本語で言えば、愛(いとほ)しみながら、慈(いつく)しみながらという意味であることも判ります。ドイツ語の音としても、確かにそのような意味である発音なのです。同じドイツ語の別の言葉に置き換えますと、liebevollであり、英語に直訳すると(こんな英語があるかどうかは知りませんが)lovefullということであり、愛に一杯の、愛に満ちたこころでという意味です。

「お前の眼は、その世界を、優しく愛撫しながら、解き放つのだ...」という最後の一行を理解するには、あなたが小さいころシャボン玉を吹くくらませて、その虹色の玉をそっと解き放った経験を思い出せばいいのではないでしょうか。その美しい透明で虹色に光る玉が一個の世界であり、あなたはそれを慈しむようにして、無償で解き放ち、放下するのです。

そして、そのことを純粋に悦ぶ。

このように考えて参りますと、思い出す安部公房の文章があります。それは、『笑う月』所収のエッセイの一つにある『シャボン玉の皮』という文章です(全集第24巻、416ページ)。

この文章は、『箱男』を発表した後に書かれたエッセイで(1973年9月1日)、この作品に挿入された8枚の写真の意味を語り、奉天の郊外にあった底なし沼のことを語り、そうして、この8枚の写真に共通するのは、これらがみな廃物だということを言ってから、その後に、何故自分はゴミに惹かれるのかを更に論じて、音叉に共鳴するようにゴミの悲鳴が聞こえることを言い、「当然のことだ。「有用性」が「廃物」に負けることはありえても、「廃物」が「有用性」に屈服したりすることはまず不可能だろう。」と書いた後で、最後のところで、次のように言います。

「ゴミ捨て場から聞こえてくる悲鳴は、どうやら、ゴミを食う沼にくわえこまれ、咀嚼されはじめた「有用性」の叫びらしい。すくなくもぼくには、そんなふうに聞こえる。まだ自分がゴミそのものではないという自覚(もしくは幻想)が、かろうじて日常を支えてくれているシャボン玉の皮なのだ。そのシャボン玉の皮の上に、たぶん明日も、ぼくはなんとかゴミを食う沼の見取図を書きつづけることだろう。もしかするとゴミは砕かれた人間の伝説なのかもしれない。」

リルケの詩の最後の一行を見て、このエッセイの最後の文章を見ると、安部公房は確かにシャボン玉の皮の美の上に日常が成り立っていると言っていると理解することが出来ます。勿論、文字としては、美、美しさとは一言も言ってはおりませんが、しかし、小さな世界を創造して、その美しく儚(はかな)い危うい小さい世界を「優しく愛撫しながら、解き放つ」、そのような無能力者、即ち「まだ自分がゴミそのものではないという自覚(あるいは幻想)」を抱くことのできる人間でいることを、「かろうじて日常を支えてくれているシャボン玉の皮」が可能にしているのだと言っているのです。

この連載第1回の巻頭に、同じこの詩集からの『飾り文字』と題する詩を掲げましたが、こうして論じて参りますと、やはり安部公房はこころの深いところで、美を求めていた、それも言葉に変換するときには陰画の美として表現をしたということが判ります。巻頭の詩の第一行をそのまま実行したならば、そうして実際に安部公房はそうしたのですが、その美は、全く陰画の美に変じることでありましょう。それが、『密会』を書いたあとの、美についての安部公房の次の言葉です。

散文としての美を考えるということ。美しい小説。このような小説を考えた作家が、日本の近代文学史上に一体何人いることでしょうか。[註6]先の戦争の後にあっては、安部公房を除けば、わたしは、三島由紀夫だけではないかと思います。前者の美は陰画の美、後者の美は陽画の美です。傍線筆者。

「この小説のエピグラフとして僕は、「弱者への愛には、いつも殺意がこめられている」という言葉を置いたけれども、それが最後には裏返されて「弱者の幸せには、いつも殺される期待がこめられている」という感じに逆転していった。「弱者への愛には、いつも殺意がこめられている」と言っている立ち場と、小説を書いている僕の立ち場とは、ちょうど裏表なんだな。書きながら感じたんだが、強者である「馬人間」を仮に主人公とすると、この小説はやはり、僕の眼で書いたのではなく、僕が自分の眼にはしたくない眼でこの世の中を書いたということになる。ある意味で、「もの凄く美しく地獄を書こうとした」とも言えるし、また、ユートピアを裏から書いたとも言える。」(『裏からみたユートピア』、全集第25巻、503ページ)

「この小説はやはり、僕の眼で書いたのではなく、僕が自分の眼にはしたくない眼でこの世の中を書いたということになる。ある意味で、「もの凄く美しく地獄を書こうとした」とも言えるし、また、ユートピアを裏から書いたとも言える。」という安部公房の言葉には、冒頭に掲げた『飾り文字』の詩想が反響しています。

安部公房が此の陰画の美に至るまでに、この反転した美を獲得するまでに、どのようにマルクス主義と日本共産党の中で苦闘を重ね、苦しんだか、どうやってその閉鎖空間から脱出を果たしたか、そうしてどのように純情な詩人から辛辣な散文家に変貌したかは、『安部公房と共産主義』(もぐら通信第29号)で論じた通りです。[註7]

[註6]
安部公房は、三島由紀夫との対談で、泉鏡花が好きだといって、次の文脈で次のように述べています。少し長いけれども引用します。(『二十世紀の文学』全集第20巻、75~76ページ)

「日本文学の評価

安部 遅すぎはしないかな。(笑)しかしもう少し詳しく聞きたいのだけれども、僕は率直に言って、伝統という観念がほとんどないのだよ。観念がだよ。自分のなかにあまりにもそれが欠如しているということに対する不安感、恐怖感さえあったよ。だけどね、もう自分に率直になっていい年だと思うよ。(笑)そこで率直に言うとね、僕にはやはり伝統という観念がない。もう完全にと言っていいくらいないな。どういうわけだろうね。
三島 それはまた、君が満州で生まれたということと関係があるのではないか。
安部 東京だよ。満州で育ったけれどもね。国は北海道なんだよ。
三島 おれもね、関西に育ってないから。関西に育つと、もっと強烈かも知れないね。京都とかね。ただ僕が伝統などと言うのは、やはり一種の敵本主義でそういうことを言うのだ。敵は本能寺にありで。
安部 やっぱりそうか。
三島 敵は本能寺にありだ。たとえばね、泉鏡花を悪いという人がある。
安部 おれは言わないよ。
三島 そうすると、日本の近代文学理念というのは、ああいうものを認めない。それから、なんでもとにかく非常に限られた狭い趣味の、近代文学上の趣味なり理念なりが、批評家のみならず、作家全部を支配しているだろう、日本じゃあ。そういうものに対する不愉快さから伝統というのだよ。というのは、なぜ江戸文学が明治で切れたか。切れたとはさらさら思ってないのだ、おれは。それから源氏から中世に来て、それから江戸文学に来る、それから江戸文学から明治文学に来るのは、さらさら切れたとは思わない。ドナルド・キーンがそういうことを言うと、いかにも外人が、つまり巨視的な目で大ざっぱに概括するというが、外人から見て、そう切れていないなら、われわれから見ても、ますます切れていないと思うのだよ。
 つまり切れているということは、全部のいまの日本近代文学者の根本理念でね、それによって作家を、評価をみなメチャクチャにしちゃう。まあ、志賀直哉氏のは立派な文学だが、ああいうふうなものだけが日本語の特質であって、もっとデコラティヴな西鶴以来の、ああいう連想作用の豊富な、メタファの豊富な文学はだね、ぜんぜん、つまり日本文学の美しいものではないというふうな考え、それでずいぶんひどい目にあってる作家が、どれだけいるかわからないよ。泉鏡花だろうが、岡本かの子だろうが、だれだろうが……。
安部 泉鏡花はおもしろいよ。好きだよ。しかし、べつだん伝統観念は必要としない。」

[註7]
1954年の文章に次のような言葉があります。真っ正直に、愚直に、正面から、日々人間が実際に社会の中で仕事をする其の現実の只中で美とは何かを問うた30歳の安部公房がおります。安部公房のこころをお察し下さい。安部公房は、社会の中で生きるために詩を書くことを教えようとしたのですし、教えたのですし、そして否定されたのです。以下傍線筆者。

「 美について、あるいは笑いについて……という具合に、すでに三回にわたって私たちはかなり抽象的な問題を論じ合ってきた。しかし読者の中には、どうやらひどく議論ぎらいの気むずかし屋もいたのである。沢山集った投書を分析してみるに及んで、私の見当ちがいがはっきりバクロされてしまった。私の文章は、そういう幾人かの人に、完全に腹をたてさせることになってしまったのだ。
……あんまりダボラを吹くな、もう一度「美学」の勉強をしなおしてこい、おまえなんかもっと隅っこに引っ込んで、短編小説でも書いておれ!と言ったようなアンバイなのである。まったくそのとおりであるらしい。
    (略)
 というのも、よせられた批判の中には、次のような重大な、ある典型的だと考えられる意見がまじっていたためだ。----「あるいは、君の考え方は正しいのかもしれない。しかし仮に正しくとも、そんなことはまるで役に立たない意見ではないのか。」
 私はなにかしら重要なアヤマチをおかしたようである。たえず、理論の実用性を念頭に置き、それを説明してきたつもりだったのだが?(略)
    (略)
 そこで私は一つ提案をしてみたい。
 わたしは文学サークルを、文学を通じてものの考え方をつくりかえる場所、思想の闘いをおしすすめる組織、だと考えているのだが、諸君はどう思いますか?
    (略)
 私が美の問題をとりあげたのは、そうした理由からだった。(略)」
(『サークルをめぐる問題---わたし達の文学教室』、1954年4月1日。全集第2巻、279ページ~281ページ)


さて、最後にもう一度、最初に戻りましょう。

そのような、無能の人間の発した言葉として、最後にもう一度、この詩の全体を眺め、味わうことに致しましょう。そうして、安部公房がそうしたように、「お前が誰であろうとも」というリルケの命令に従って、安部公房のこころを理解するために、此の詩を読んでみましょう。この詩を読んだ後に、「”物”と”実存”に関する対話」についてのあなたの理解が深まっておりますように。

「”物”と”実存”に関する対話」とは、物と物との遥かな距離(差異)と、物と未分化の実存である安部公房との遥かな距離(差異)に関する対話であるばかりではなく、物と物との差異と、物と未分化の実存であるあなたとの差異に関する対話のことなのです。

そのようなこころで、再度お読み下さい。

「入り口

お前が誰であろうとも:夕方には外に出よ
お前の部屋から、その中ではお前は全てを知っているその部屋から外へ、何故ならば
遥かな距離の前に在る最後のものとして、お前の家はあるのだから
お前が誰であろうとも。
お前の両眼は、疲れていて、
消費され消耗した敷居からほとんど自由になることはないが、
その眼を用いて、お前は、極くゆっくりと、一本の黒い木を持ち上げる
そして、その木を天の前に立てる:しなやかにほっそりとして、一人で。
そして、お前は世界をつくったのだ。そして、その世界は偉大だ
未だ沈黙の中に在って成熟している一つの言葉のように。
そして、お前の意志が、その世界の本当の意味を掴(つか)まえ、理解するに従って
お前の眼は、その世界を、優しく愛撫しながら、解き放つのだ...」

その無能力者、即ち安部公房の語彙を用いれば、橋の下や峠や窓辺といった、物と物の狭間隙間という差異、即ち世俗の人間が忘れ閑却し、見ることも無く記憶することも無い上位接続(論理積:conjunction)への場所(垂直に立つ無時間の空間)にいる無名無垢の、未分化の実存である人間の発する言葉、安部公房の理解した其の人間の一人であるリルケの言葉が、どのように深い意味を蔵しているか、これから一篇一篇、見て参ることに致しましょう。

一言で安部公房の世界観を言えば、安部公房は、世界は差異である、と考えているのです。

これが、小説であれ、戯曲であれ、総合的な舞台表現(安部公房スタジオ)であれ、その演技指導であれ、音楽や作曲であれ、写真であれ、シナリオ(TV、ラジオ、映画)であれ、言語論(言語機能論)であれ、これらの多領域に渡る安部公房の活動の根底にある唯一の考えかたです。つまり、安部公房の詩は、この考えで書かれており、多領域の藝術表現は、この考えで書かれた詩から発生しているのですし、この詩についての考え方を多領域に変形させて、即ちその領域の別の語彙を用いて、詩作と同じことを行ったということなのです。

安部公房のすべての主人公が、閉鎖空間からの脱出を最後に図るのは、内部と外部の差異を、その遥かな距離をゼロにするためなのです。リルケの詩にあるように自己を犠牲にし、自己を放棄し、自己を忘却して、即ち「お前が誰であろうとも」という副次的な、二次的な、二義的な場所、即ち存在になることによって。

これが、安部公房の言う、リルケの詩を抒情的にではなく論理的に読んだ、即ち「いろんな概念や観念の背景に必ず「物」が媒体にならなければ成り立たない」(全集第24巻、143ページ下段から144ページ上段。「〈書斎にたずねて〉」)という言葉の意味なのです。

このようなこの「物」を、安部公房は写像(mapping=地図の製作)に関する数学用語を用いて「投影体」と呼び、箱、壁、砂をそのような例として、即ち差異として、即ち関係として、即ち関数(function=機能)として、即ち媒介として、その名前を挙げております(1985年のインタビュー『方舟は発進せず』。全集第28巻、58ページ)。[註8]

[註8]
写像とは、差異を考えるということなのです。その差異をゼロにするために、物と物とを如何に交換するかという其の関係(機能)を創造するかという考え方です。これは、そのまま、1970年代に、安部公房が安部公房スタジオの若い役者たちに伝えようとした演技指導の中心に据えたニュートラルという考え方、ニュートラルという言葉の意味(差異)なのです。

この、安部公房の世界観、即ち世界は差異で出来ているという世界観、それも絶えざる交換関係による動態的な差異(関係、機能)で出来ているという世界観、これは宇宙観と言い換えても勿論いいものですが、これについては、何故そのような思想に至ったのかの明解な数学的な理由とリルケと言語との関係を『安部公房の奉天の窓の暗号を解読する~安部公房の数学的能力について~』(もぐら通信第32号、第33号、第34号)で詳細に論じておりますので、これをお読み下さい。

また、これと同じことを、言語論として、即ち安部公房の言語関数論が、人類の歴史で如何なる普遍的な意味を有することであるのかは、『梨という名前の天国への階段、天国への階段という名前の梨~従属文の中の安部公房論~』(もぐら通信第27号)で簡潔に論じ、安部公房という人間の変形の思考を言語機能論として論じましたので、お読み下さい。

上記の[註6]で「そこで率直に言うとね、僕にはやはり伝統という観念がない。もう完全にと言っていいくらいないな。どういうわけだろうね。」と言い、「泉鏡花はおもしろいよ。好きだよ。しかし、べつだん伝統観念は必要としない。」と安部公房の言っていることの意味がよく解り、安部公房は伝統を否定しているのでは全然なく、伝統という観念を否定しているという意味がよくお解り戴けることでしょう。


次回は、『AUS EINEM APRIL』(四月の中から(外へ))という詩です。

この題名そのものが、既に内部から外部へ、今回論じた『入口』に対して出口を歌っていることに気づきます。

詩人は、こうやって言葉を紡(つむ)ぎ、詩集を編むのです。

安部公房の『無名詩集』も同じようにして、読み解くことができます。今度は、安部公房の詩をリルケの詩と比較をし、解釈をしながら。勿論、これだけが『無名詩集』の読み方ではありませんけれど。

では、また次回、


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